巨勢野足 (こせののたり)
【概説】
平安時代初期の公卿・官僚。嵯峨天皇が薬子の変に際して新設した「蔵人所」において、藤原冬嗣とともに初代の長官である蔵人頭に任命された人物である。
薬子の変と蔵人頭への抜擢
弘仁元(810)年、平城上皇が平城京への遷都を宣言したことに端を発し、嵯峨天皇との間で武力衝突寸前の緊迫した事態が生じた。これが薬子の変(平城太上天皇の変)である。この危機の最中、嵯峨天皇は機密保持と天皇の命令(詔勅)を迅速に伝達するための臨時の官職として蔵人所を設置した。その実質的な長官である初代蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢されたのが、式部大輔兼右大弁の任にあった巨勢野足と、式部大輔兼右兵衛督であった藤原冬嗣であった。野足は天皇の側近として実務を取り仕切り、事態の収拾に大きく貢献した。
名門古代氏族「巨勢氏」の系譜と野足の官歴
巨勢(こせ)氏は、古代の伝説的英雄である武内宿禰を祖とする臣(おみ)姓の名門豪族である。律令体制への移行期に大極殿造営などで活躍したものの、奈良時代中期以降は藤原氏などの台頭に押され、政権中枢から退きつつあった。そうした中で野足は、卓越した実務能力と軍事的な才覚によって頭角を現した。蔵人頭就任後は、弘仁2(811)年に参議に昇進して公卿(議政官)の列に加わり、陸奥出羽按察使や右大弁などの要職を歴任して朝政を支えた。死後にはその功績を称えられ、従三位が追贈されている。
藤原冬嗣との対比に見る歴史的意義
ともに初代蔵人頭に就任した藤原冬嗣は、のちに嵯峨天皇の深い信頼を得て藤原北家全盛期の礎を築いた。一方で巨勢野足の巨勢氏は、その後歴史の表舞台から徐々に姿を消していく。しかし、国家の危機において冬嗣と並んで野足が初代蔵人頭に選ばれたという事実は、当時の朝廷において彼の有能な実務官僚としての実力が極めて高く評価されていたことを示している。嵯峨天皇によるこの人事は、門閥の格に依存せず、真に実務に長けた人材を登用して危機を乗り切ろうとした平安初期の政治改革のあり方を象徴している。