貞観格式 (じょうがんきゃくしき)
【概説】
平安時代前期の清和天皇の治世に、藤原氏宗らによって編纂された格と式の総称。嵯峨朝の『弘仁格式』、醍醐朝の『延喜格式』と並び、「三代格式」の第2段階に位置づけられる法典である。
三代格式における位置づけと編纂の背景
大宝律令や養老律令の制定以降、社会の実態が変化するにつれて、基本法である「律」や「令」をそのまま適用することが困難となった。そのため、時の朝廷は状況の変化に対応するための追加法令である「格(きゃく)」と、その具体的な施行細則である「式(しき)」を頻繁に発布して法体系を維持した。これら膨大な法令を整理・体系化する作業は、嵯峨天皇の時代に『弘仁格式』として初めて行われた。
しかし、『弘仁格式』の編纂から約50年が経過すると、その後に発布された新たな格や式が再び累積し、法令相互の矛盾や重複が行政実務上の混乱を招くようになった。そこで清和天皇の貞観年間、当時台頭しつつあった藤原北家を中心に新たな格式の編纂事業が開始された。この事業を主導したのが、大納言の藤原氏宗や南淵年名といった実務に精通した公卿たちであった。
『貞観格』と『貞観式』の成立と歴史的意義
編纂事業は二段階にわたって行われ、まず869年(貞観11年)に『貞観格』12巻が完成・奏上された。これは『弘仁格式』が制定された弘仁11年(820年)から貞観10年(868年)までの約50年間に発布された「格」を、官司ごとに分類して整理したものである。続いて871年(貞観13年)には、行政手続の細則をまとめた『貞観式』20巻が完成した。
『貞観格式』の成立は、中央集権的な律令国家から、より柔軟な官僚制と儀式を重んじる平安貴族社会への移行期にあたり、朝廷の行政手続きや宮廷儀礼の基準を定めた点で極めて重要な意義を持つ。のちに醍醐天皇の時代に『延喜格式』が編纂されることで「三代格式」が完成するが、『貞観格式』はその中間をつなぐ重要なミッシングリンクであり、平安前期の法制史および社会制度の変遷を紐解く上で欠かせない史料である。