徳政相論

高校日本史的重要度
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【参考リンク】
徳政相論(Wikipedia)

徳政相論 (とくせいそうろん)

805年

【概説】
平安時代初期の805年(延暦24年)に、桓武天皇の御前で行われた国家政策をめぐる論争。藤原緒嗣と菅野真道の間で戦われ、これにより桓武天皇が進めてきた二大事業である蝦夷討伐と平安京造営が中止されることとなった。

「軍事」と「作事」をめぐる対立

桓武天皇は、東北地方への領域拡大を目指す蝦夷征伐(軍事)と、新たな都である平安京の造営(作事)を二大事業として強力に推進していた。しかし、度重なる遠征と大規模な土木工事は国家財政を逼迫させ、重い徴兵や課役を課された農民の疲弊は限界に達していた。このような状況下で、延暦24年(805年)12月、天皇は公卿らにこれまでの国家方針の是非を問い、政策論争が巻き起こった。これが徳政相論である。

対立の帰結と桓武朝の政策転換

論争において、30代の若き参議であった藤原緒嗣(式家)は「天下の苦しむ所は、軍事と作事なり。この二事を停むれば、すなわち庶民息(やす)まん」と述べ、庶民の負担を軽減するために両事業の中止を強く訴えた。これに対し、高齢の参議である菅野真道(渡来系氏族出身)は事業の継続を主張して激しく反論した。最終的に桓武天皇は緒嗣の意見を容れ、長年推進してきた「軍事と作事」の中止を決断した。翌年に天皇が崩御すると、朝廷の基本路線は領域拡大や造都から、律令体制の再建と国内の安定を重視する抑制的な政策(徳政)へと本格的にシフトしていくこととなった。

最終更新:
2026年6月17日 @ 06:06

日本史一問一答(ランダム)

Q. 延暦寺の僧兵が強訴を行う際、神の威光を借りるために担いで都に押し寄せた神輿は、どの神社のものか。
Q. 鎌倉時代の守護に与えられた主要な職務である、大番催促・謀叛人の逮捕・殺害人の逮捕の3つを総称して何というか?
Q. 法華経信者以外からは布施を受けず、布施をしないという教義を持ち、幕府の弾圧を受けた日蓮宗の一派は何か。