橘氏 (たちばなし)
【概説】
奈良時代から平安時代初期にかけて中央政界で活躍した有力貴族。宮廷で強い影響力を持った県犬養三千代、およびその子である橘諸兄を祖とする。平安時代に入ると、台頭する藤原氏による他氏排斥の標的となり、次第に政権中枢から退くこととなった。
橘氏の起源と奈良時代における政権掌握
橘氏の祖は、天武・持統朝から宮廷に仕え、藤原不比等の妻でもあった女官の県犬養三千代(橘三千代)である。和銅元(708)年、元明天皇からこれまでの功績を称えられて「橘」の氏姓を賜ったことに始まる。のちに三千代の前夫との間の子である葛城王が臣籍降下し、橘諸兄と名乗ったことで、貴族としての橘氏が確立した。
橘諸兄は、当時政権を握っていた藤原四兄弟が天平9(737)年に天然痘で急死したのち、右大臣(のち左大臣)として政権を主導した。諸兄は唐帰りの吉備真備や玄昉を重用し、聖武天皇のもとで大仏造立などの仏教政策を推進した。しかし、藤原南家の藤原仲麻呂が台頭すると諸兄は不遇となり、その死後に息子である橘奈良麻呂が仲麻呂打倒を画策したものの事前に露見(橘奈良麻呂の乱、757年)。これにより橘氏は政権中枢から一時後退することとなった。
平安初期の再興と他氏排斥による没落
平安時代初期、橘清野の娘である橘嘉智子が嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)となったことで、橘氏は天皇の外戚として再び勢力を盛り返した。嘉智子は一族の子弟を教育するために大学別曹である学館院を創設するなど、橘氏の学問的・政治的地位の向上に努めた。
しかし、こうした再興は長くは続かなかった。承和9(842)年の承和の変において、三筆の一人として知られる高官・橘逸勢が伴健雄らとともに謀反の疑いをかけられ、伊豆国へ流罪となって獄死した。この事件は藤原良房が他氏を排斥し、のちの摂関政治の基礎を築く契機となった。さらに宇多天皇の代には、学者として重用された橘広相が、関白・藤原基経との間で発生した阿衡の紛議(887〜888年)に巻き込まれて失脚した。これら度重なる打撃により、橘氏は公卿を世襲する最高位の家格から脱落し、受領などの地方官として活路を見出す階層へと没落していった。