陽成天皇 (ようぜいてんのう)
868年〜949年
【概説】
平安時代前期に在位した第57代天皇。清和天皇の第一皇子として幼くして即位したが、伯父の藤原基経との対立の末に退位を余儀なくされた。その強引な退位劇は、摂関政治の確立期における皇位継承のあり方に大きな影響を与えた。
藤原基経との対立と「奇行」による廃位
貞観18年(876年)、陽成天皇はわずか9歳で即位し、母方の伯父である外戚の藤原基経が摂政となって政務を補佐した。しかし、成長した天皇は自立を模索し、基経との関係は徐々に悪化していった。こうした政治的対立のなか、天皇には暴力的な「奇行」が目立つようになったとされる。元慶7年(883年)には、宮中において天皇の近侍であった源益(みなもとのます)が打殺される事件が発生した。天皇自身の関与が強く疑われる中、基経は天皇の資質を問題視して政務を放棄し、最終的に元慶8年(884年)、陽成天皇を事実上の強制的な退位(廃位)へと追い込んだ。
皇統の移動と摂関政治への影響
陽成天皇の退位は、臣下である藤原氏が天皇の改廃権を事実上掌握したことを示す象徴的な事件であった。基経は陽成天皇に代わって、年長で扱いやすいとみられた仁明天皇の皇子(光孝天皇)を擁立した。これにより、皇統は従来の文徳・清和の流れから光孝・宇多・醍醐の流れへと大きく移動することとなった。退位後の陽成上皇は、歴代の上皇のなかでもきわめて長い65年におよぶ余生を静かに送った。歌人としての才能に恵まれ、小倉百人一首には「陽成院」の名で「つくばねの峰より落つるみなの川…」の恋歌が残されている。