村上天皇 (むらかみてんのう)
【概説】
平安時代中期に在位した第62代天皇。摂政・関白を置かずに親政を行い、その治世は「天暦の治」として後世に称えられた。最後の本朝十二銭である「乾元大宝」の鋳造や、勅撰和歌集『後撰和歌集』の編纂などの文化的業績でも知られる。
「天暦の治」の実態と摂関政治への過渡期
村上天皇の治世(946年〜967年)において最も特筆すべきは、949年に執政であった一族の長老、藤原忠平(関白)が没した後に、摂政・関白を新たに置くことなく政務を執ったことである。この親政期は、父である醍醐天皇の治世(延喜の治)と並び、後世の武士や公家から「延喜・天暦の治」と呼ばれ、天皇親政が行われた理想的な黄金時代と仰がれた。
しかし歴史実態としては、天皇が独裁的な権力を振るったわけではない。朝廷の実務は忠平の子である左大臣・藤原実頼と右大臣・藤原師輔の兄弟ら公卿による合議によって運営されており、実質的には藤原氏による政権掌握の体制は維持されていた。特に右大臣の藤原師輔は、娘の安子を村上天皇の皇后(中宮)として入内させ、のちの冷泉天皇や円融天皇をもうけることで強力な外戚関係を築き上げた。このように、村上天皇の親政期は、一時的に摂関のポストが空いたに過ぎず、実質的にはのちの摂関政治が本格化するための政治的・血縁的基盤が完成しつつある過渡期であったと評価できる。
皇朝十二銭の終焉と「乾元大宝」の鋳造
経済政策においては、958年(天徳2年)に乾元大宝(けんげんたいほう)と呼ばれる銅銭の鋳造を行った。これは、奈良時代の和同開珎から続く一連の公鋳貨幣である「皇朝十二銭(本朝十二銭)」の12番目であり、結果としてこれが歴史上最後の公鋳銅銭となった。
当時の日本国内では、銅の算出量の激減や朝廷の財政難により、鋳造される貨幣の品質が著しく悪化(鉛の混入率の上昇や極端な小型化)していた。この乾元大宝も非常に粗悪な品質であり、さらに流通の前提となる「貨幣に対する社会的信用」がすでに完全に失墜していたため、市中での流通はほとんど進まなかった。乾元大宝の鋳造を最後に朝廷は貨幣製造を断念し、日本社会は再び米や絹などを現物貨幣とする時代へと逆戻りすることとなった。この経済的混乱は、朝廷の地方支配力や国家財政の構造的な行き詰まりを象徴する事象であった。
「梨壺の五人」と平安王朝文化の開花
政治・経済面での地殻変動の一方で、村上天皇の宮廷は極めて優美な王朝文化の舞台となった。天皇自身が学問や和歌、管弦(特に琴)に深く傾倒し、宮廷文化の振興に熱心であったことが背景にある。
951年(天暦5年)には、宮中にある昭陽舎(梨壺)に和歌所を設置し、大中臣能宣や清原元輔(清少納言の父)ら5人の歌人(梨壺の五人)に『万葉集』の解読(訓点付け)と、新たな勅撰和歌集の編纂を命じた。こうして成立したのが、八代集の第二にあたる『後撰和歌集』である。また、960年(天徳4年)に催された「天徳内裏歌合」は、平安時代を代表する文化的イベントとして語り継がれ、のちの一条天皇期における女房文学の隆盛へと至る国風文化の潮流を決定づけることとなった。