摂関家
【概説】
代々、天皇を補佐する摂政や関白に就任する資格を持つ特定の家柄。平安時代中期以降、藤原北家、特に藤原道長の子孫にその資格が限定され、公家社会の頂点に君臨した。鎌倉時代には五摂家へと分裂したが、明治維新に至るまで朝廷の最高家格として存続し続けた。
藤原北家の台頭と外戚政策
摂政や関白の地位は、本来特定の家柄に固定されたものではなかった。しかし、平安時代前期に藤原北家の藤原良房が人臣として初めて摂政に就任し、続く藤原基経が初の関白となると、次第に藤原北家がこの地位を事実上独占するようになった。彼らは自身の娘を天皇の后妃として入内させ、生まれた皇子を次代の天皇に即位させることで、天皇の母方の祖父(外祖父)として実権を握る外戚政策を展開した。これにより、天皇の私的な親族が公的な国政の最高責任者である摂政・関白を兼ねるという、いわゆる摂関政治の基礎が築かれたのである。
「家」としての摂関家の確立
11世紀前半、藤原道長とその子・藤原頼通の時代に摂関政治は最盛期を迎えた。この時期の重大な変化は、単に藤原北家の有力者がその都度摂関に選ばれる段階から、道長・頼通の直系子孫(御堂流)のみが摂政・関白に就任できるという観念が定着したことである。すなわち、この時代に初めて、世襲の最高家格としての「摂関家」という特定の家柄が確立したといえる。一族を統率する氏長者(うじのちょうじゃ)の地位や、天皇から下賜された広大な荘園などの経済基盤(殿下渡領など)も、この摂関家の当主によって代々独占的に継承されることとなった。
院政の開始と五摂家の成立
平安時代後期に入り、藤原氏を外戚としない後三条天皇の即位や、白河上皇による院政の開始によって、天皇の父系(父や祖父)が権力を持つようになると、母系の外戚関係に依存していた摂関家の政治的実権は大きく低下した。さらに平安末期から鎌倉時代にかけて、摂関家内部での激しい家督争いや源平の争乱、承久の乱などの影響を受け、摂関家は複数の家系に分裂することとなる。最終的に、鎌倉時代中期までに近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家の5つの家が成立し、これを五摂家と呼ぶ。以降、摂政・関白はこの五家から持ち回りで任じられる体制が定着した。
武家政権下における摂関家の存在意義
鎌倉幕府の成立以降、政治的な実権が完全に武家へと移った後も、摂関家は朝廷内における最高家格としての権威を保ち続けた。室町時代や江戸時代においても、公家社会の身分秩序の頂点に立ち続け、朝廷の伝統的な儀式や学問、有職故実の継承において中核的な役割を担った。豊臣秀吉が特例として関白に就任した事態を除き、五摂家による摂関の独占は幕末まで揺らぐことはなかった。1867年の王政復古の大号令によって摂政・関白の職が廃止されるまで、摂関家は日本の古代から近世に至る長きにわたり、天皇の権威と密接に結びつきながら公家社会を支え続けた特異かつ重要な存在であった。