藤原兼通 (ふじわらのかねみち)
925〜977
【概説】
平安時代中期の公卿。藤原北家の右大臣・藤原師輔の次男であり、円融天皇の代に関白を務めた政治家。弟の藤原兼家と激しい権力闘争を繰り広げ、一時的に政権を掌握した。
兄弟の確執と兼家との対立
藤原兼通は、摂関政治の基礎を固めた藤原師輔の次男として生まれた。本来であれば、同母兄である藤原伊尹が政権を握った後、順当に官位を上げるはずであった。しかし、弟の藤原兼家が有能であり、父や兄から重用されて兼通よりも先に昇進を重ねたことで、兄弟の間に深い溝が生じることとなった。この「寛和の変」へとつながる一連の兄弟間の激しい権力闘争は、当時の貴族社会における家督と主導権を巡る対立の典型例である。
関白就任と兼家の排斥
天禄3年(972年)、兄の伊尹が没すると、兼通は妹の藤原安子(村上天皇の皇后)が生前に遺した「兄弟の順序に従って登用せよ」という旨の書き置きを円融天皇に示し、弟の兼家を出し抜いて内大臣、次いで関白に就任した。政権を握った兼通は、兼家を露骨に冷遇し、その昇進を妨げ続けた。兼通の治世は5年ほどで自身の病没により幕を閉じるが、彼の死後に復権した兼家がのちの道長へとつながる摂関政治の全盛期を築く契機となった点で、この兄弟の闘争は摂関家の権力構造を理解する上で重要な歴史的転換点であった。