平沼騏一郎

1939年に首相となったが、外交方針の前提を覆す「独ソ不可侵条約」の締結に衝撃を受け、「欧州の天地は複雑怪奇」という有名な言葉を残して退陣した人物は誰か?
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重要度
★★

平沼騏一郎 (ひらぬまきいちろう)

1867年〜1952年

【概説】
昭和初期に活躍した司法官僚出身の政治家、右翼勢力の巨頭。1939(昭和14)年に内閣総理大臣に就任したが、日独伊三国同盟の交渉中に同盟相手のドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んだため、外交方針の破綻から「複雑怪奇」と言い残して総辞職した。

司法界の巨頭と国家主義運動の展開

平沼騏一郎は津山藩(現在の岡山県)の藩士の家に生まれ、帝国大学法科大学を卒業後に司法省に入った。検事総長や大審院長を歴任し、大正から昭和初期にかけて「司法界の法王」として独自の絶対的な地位を築いた。彼の思想は極めて保守的であり、大正デモクラシーの進展や社会主義思想の台頭に対して強い危機感を抱いていた。

1924(大正13)年、平沼は官僚や軍人、学者などを組織して国家主義団体である「国本社」を結成し、その会長に就任した。国本社は「国体精神」の発揚を掲げ、政界・軍部に広範なネットワークを形成して昭和の超国家主義・右傾化の温床となった。これにより平沼は、既成政党を批判する「既成勢力外の巨頭」として、枢密院副議長や議長を歴任しながら政界に強い影響力を保持し続けた。

平沼内閣の成立と三国同盟交渉の迷走

1939(昭和14)年1月、日中戦争の泥沼化と国際的孤立の中で、第1次近衛文麿内閣の後を受けて平沼騏一郎内閣が発足した。平沼内閣にとって最大の課題は、ドイツ・イタリアとの日独伊三国同盟(防共協定の強化)の交渉であった。

当時、日中戦争への介入を強めるイギリス・アメリカに対抗するため、陸軍は日独伊による強力な軍事同盟の締結を主張していた。しかし、有田八郎外相や海軍(米内光政海相、山本五十六次官ら)は、英米との全面衝突を避けるために同盟の対象をソ連(共産主義)に限定することを強く求めた。平沼は司法官僚らしい妥協案を模索したものの、陸軍と海軍・外務省の鋭い対立を調整できず、五相会議を数十回も重ねながら同盟交渉は完全に迷走した。

「複雑怪奇」声明と電撃的な総辞職

同盟交渉が暗礁に乗り上げていた1939年8月23日、日本政府に衝撃的なニュースがもたらされた。反共・防共を共通の看板としていた同盟交渉相手のドイツが、日本の宿敵かつ最大の仮想敵国であったソ連と独ソ不可侵条約を電撃的に締結したのである。

このドイツの裏切りによって、平沼内閣がそれまで進めてきた「防共」を軸とする対外政策の前提は根底から覆されることとなった。また、ほぼ同時期に満蒙国境で発生していたソ連軍との衝突(ノモンハン事件)での日本軍(関東軍)の大敗も重なり、平沼は事態の収拾を断念した。彼は「欧洲の天地は複雑怪奇なる新事態を生じた」という有名な声明を遺し、同年8月28日に内閣総辞職に追い込まれた。

平沼は首相退任後も重臣として国政に関与し続け、戦後はA級戦犯として極東国際軍事裁判(東京裁判)で終身禁錮の判決を受け、服役中に病没した。彼の失脚劇は、当時の日本外交がいかに欧州情勢の急激な変化に対応できず、独善的な見通しに依存していたかを象徴する出来事であった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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