藤原道長 (ふじわらのみちなが)
【概説】
平安時代中期における藤原北家の公卿であり、摂関政治の最盛期を現出させた政治家。4人の娘を次々と天皇の后妃として入内させ、天皇の外祖父として朝廷における絶対的な権力を確立した。「この世をば わが世とぞ思ふ…」の歌を詠んだことで知られ、国風文化の華やかな時代を築き上げた。
政権獲得への道のりと政敵の排除
藤原道長は、摂政・関白を務めた藤原兼家の五男として生まれた。兄に道隆、道兼らがおり、若年期は権力の中枢からやや遠い位置にいた。しかし、正暦元年(990年)に父の兼家が没すると、長兄の道隆が関白となるがわずか5年で病死し、次兄の道兼も関白就任直後に疫病で急死するという数奇な運命をたどる。これにより、道隆の嫡男である藤原伊周(これちか)と道長との間で激しい権力闘争が勃発した。
長徳2年(996年)、伊周とその弟の隆家が花山法皇に矢を射かけるという事件(長徳の変)を引き起こして大宰府などに左遷されると、道長は政敵を完全に排除することに成功した。以後、道長は内覧(天皇に奏上される文書を事前に見る役職)および右大臣となり、最高権力者としての地位を盤石なものとしていった。
「一家立三后」という前代未聞の外戚政策
道長の権力基盤を決定づけたのは、天皇の母方の祖父(外祖父)として実権を握る外戚政策である。道長はまず、長女の彰子を一条天皇に入内させた。当時、一条天皇にはすでに伊周の妹である定子が皇后として存在していたが、道長は定子を「皇后」、彰子を「中宮」とする前例のない「一帝二后」の制を強行し、強引に彰子を寵愛させるよう仕向けた。彰子はのちの後一条天皇と後朱雀天皇を産み、道長の政治的優位は決定的となった。
さらに道長は、次女の妍子(けんし)を三条天皇の中宮、四女の威子(いし)を後一条天皇の中宮に立てた。これにより、太皇太后に彰子、皇太后に妍子、中宮に威子という、3人の娘が同時に后位を占める「一家立三后」(いっかりつさんごう)という日本史上空前絶後の事態を実現させた。後年には六女の嬉子も皇太子の妃となり、天皇家の血統を藤原氏で完全に包み込んだのである。
「望月の歌」と摂関政治の絶頂
寛仁2年(1018年)、四女の威子が中宮に立てられた際の宴席で、道長は有名な「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌を詠んだ。興味深いことに、この歌は道長自身の日記である『御堂関白記』には記されておらず、政界の重鎮であった藤原実資(さねすけ)の日記『小右記』に書き留められている。実資は道長に安易に迎合しない気骨ある公卿であったが、この時は道長の圧倒的な権勢を前に、列席の公卿全員でこの歌を幾度も返杯・唱和するほかなかったと記している。
なお、道長は後世「御堂関白」と称されることが多いが、実際には生涯で一度も「関白」の地位には就いていない。彼が就任したのは摂政と太政大臣のみであり、大部分の期間は内覧・左大臣として政務を執った。これは名誉職化しつつあった関白よりも、太政官の事実上のトップである左大臣として実務を掌握し、天皇の直接的な代理人として権力を行使することを重視したためと考えられている。
受領の台頭と国風文化の保護
道長の絶対的な権力は、地方の国司として富を蓄積した受領(ずりょう)層からの強固な経済的奉仕によって支えられていた。受領たちは官職を得るため、あるいは重任(再任)されるために、巨額の財を道長に献上した(成功・重任)。道長はこの莫大な富を背景に華麗な貴族生活を送り、同時に優れた文化のパトロンともなった。
娘の彰子の教養を高めるため、紫式部や和泉式部といった優れた女房たちを宮中に集め、『源氏物語』などの執筆を支援したことは、かな文字を中心とする国風文化の隆盛に大きく貢献した。また晩年は病に苦しみ、末法思想を背景に当時広まっていた浄土教(阿弥陀信仰)に深く帰依し、壮大な法成寺(ほうじょうじ)を建立した。臨終の際には、阿弥陀如来像の手と自分の手を五色の糸で結び、極楽浄土への往生を願いながら生涯を閉じたと伝わっている。