自由民主党
【概説】
1955(昭和30)年の保守合同によって結成された日本を代表する保守政党。初代総裁に鳩山一郎が就任して以降、「55年体制」のもとで約38年間にわたり長期政権を維持し、戦後日本の高度経済成長や親米路線を主導した。
結成の背景と「55年体制」の成立
戦後日本の保守政界は長らく離合集散を繰り返していたが、1955年に大きな転機を迎えた。同年10月、サンフランシスコ平和条約への賛否を巡って左右に分裂していた日本社会党が統一を果たすと、社会主義政権の誕生に危機感を抱いた財界の強い要請もあり、保守陣営の結集が急務となった。これを受け同年11月、日本民主党(鳩山一郎総裁)と自由党(緒方竹虎総裁)が合同(保守合同)し、衆参両院で単独過半数を占める巨大与党・自由民主党が誕生した。
初代総裁には鳩山一郎が就任した。こうして、政権を担当する自由民主党に対し、憲法改正阻止に必要な議席の3分の1(改憲阻止ライン)を確保した社会党が野党第一党として対峙するという政治構図が定着した。これは結成の年にちなんで「55年体制」と呼ばれ、以後、冷戦終結後の1993年まで長きにわたる日本政治の基本構造となったのである。
高度経済成長の牽引と「保守本流」
自民党の長期政権を支えた最大の要因は、経済成長の実現であった。1960年の安保闘争によって日米安全保障条約改定を強行した岸信介内閣が退陣すると、後を受けた池田勇人内閣は、「所得倍増」をスローガンに掲げて国民の関心を政治闘争から経済へと向けさせた。続く佐藤栄作内閣の時代にかけて、日本は高度経済成長を遂げ、世界第2位の経済大国としての地位を確立する。
この過程で、吉田茂の系譜を引く池田や佐藤ら「保守本流」と呼ばれる官僚出身の政治家たちが党の主導権を握った。彼らは日米安全保障条約を基軸とする親米・軽武装路線を堅持しつつ、国内では農業や中小企業に対する補助金、地方への公共事業を通じた利益配分(利益誘導型政治)を巧みに行い、農協や各種業界団体を組織化して強固な集票基盤を築き上げていった。
派閥政治の展開と金権政治への批判
自民党の内部は決して一枚岩ではなく、常に複数の派閥が存在し、総裁(=内閣総理大臣)の座を巡って激しい権力闘争が繰り広げられた。疑似的な政権交代として機能したこの派閥抗争は、1970年代以降、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘らによる「三角大福中」の争いとして激化する。特に田中角栄は、数の力と圧倒的な資金力を背景に党内最大派閥を形成し、「闇将軍」として政界に強大な影響力を及ぼした。
しかし、日常の政治活動や選挙に莫大な政治資金を必要とする派閥政治は、構造的な汚職を生み出す温床ともなった。1976年に発覚したロッキード事件や、1988年に表面化したリクルート事件などの大型疑獄事件は、自民党の「金権体質」に対する国民の強い批判と政治不信を招くこととなった。
「55年体制」の崩壊と政界再編
1980年代末から1990年代にかけて、冷戦の終結やバブル経済の崩壊といった国内外の環境変化が起こる中、相次ぐ政治腐敗に端を発する政治改革(小選挙区制の導入など)を巡る党内対立は、ついに自民党の分裂を引き起こした。1993(平成5)年の衆議院議員総選挙において自民党は過半数を割り込み、非自民・非共産8党派による細川護熙連立内閣が誕生した。これにより、38年続いた「55年体制」は崩壊し、自民党は結党以来初めて下野した。
その後、自民党は1994年に長年の宿敵であった社会党および新党さきがけと連立を組むこと(自社さ連立政権・村山富市内閣)で政権に復帰した。1990年代後半以降は公明党との連立(自公連立)などを通じて政権与党の座を維持しているが、単独で絶対的な優位を保った「55年体制」期のかつての姿からは大きく変容を遂げており、現代の日本政治における新たな課題に直面し続けている。