日ソ共同宣言

1956年、鳩山一郎首相がモスクワで署名し、日本とソ連の国交回復と、ソ連の日本の国連加盟支持を取り決めた宣言は何か?
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日ソ共同宣言

1956年

【概説】
1956年(昭和31年)に日本とソビエト連邦との間で調印され、両国間の戦争状態を終結させて外交関係を回復させた外交文書。最大の懸案であった北方領土問題の解決は先送りされたが、この合意によって日本の国際連合加盟が実現することとなった。

鳩山一郎内閣の「自主外交」と国交回復への道程

1951年のサンフランシスコ平和条約において、ソビエト連邦は会議に出席したものの条約への署名を拒否した。そのため、日本とソ連の間では法的な戦争状態が継続しており、国交も存在しない状況が続いていた。1954年に成立した鳩山一郎内閣は、前任の吉田茂内閣による対米協調一辺倒の路線を修正し、冷戦下における「自主外交」の一環として、ソ連などの東側諸国との関係改善を主要な外交課題に掲げた。当時、ソ連側もスターリン批判を行ったフルシチョフ政権下で「平和共存路線」への転換を図っており、両国の思惑が一致する形で国交回復交渉が開始されることとなった。

北方領土問題と交渉の難航

1955年6月からロンドンにおいて日ソ交渉が開始されたが、最大の障壁となったのが北方領土問題であった。日本側は固有の領土である国後島、択捉島、歯舞群島、色丹島の「四島返還」を強く求めたが、ソ連側は歯舞・色丹の「二島引き渡し」までしか譲歩を見せなかった。さらに、冷戦下で日本の東側接近を警戒するアメリカのダレス国務長官が、「日本が国後・択捉に対する主権を放棄してソ連と妥協するならば、アメリカは沖縄を返還しない」と圧力をかける出来事(ダレスの恫喝)も発生し、平和条約の締結交渉は完全に暗礁に乗り上げた。

共同宣言の成立と合意内容

領土問題を含む平和条約の締結は当面困難であると判断した鳩山首相は、西ドイツがソ連と国交を回復した際の手法(アデナウアー方式)に倣い、領土問題の解決を先送りにして「戦争状態の終結」と「国交回復」のみを先行させる方針へ転換した。鳩山首相は自らモスクワへ赴き、1956年10月19日、ソ連のブルガーニン首相との間で日ソ共同宣言に署名した。これにより両国の戦争状態は終結し、外交関係が回復した。また本宣言には、ソ連が日本の国連加盟を支持すること、ソ連内に留め置かれていたシベリア抑留者の帰還を実施すること、そして「平和条約締結後に歯舞群島および色丹島を日本に引き渡す」ことが明記された。

国連加盟の実現と現在に続く課題

日ソ共同宣言の発効は、戦後日本外交にとって決定的な前進をもたらした。これまで日本の国際連合加盟に対して拒否権を発動し続けてきたソ連が賛成に転じたことで、同年12月、日本の国際連合加盟が全会一致で承認されたのである。これにより日本は国際社会への完全な復帰を遂げた。しかし、宣言に盛り込まれた「平和条約締結後の二島引き渡し」という約束は、1960年の日米安全保障条約の改定に対してソ連が強く反発して条件の変更を一方的に通告したため、事実上凍結された。結果として、現在に至るまで日ソ(日ロ)間の平和条約は締結されておらず、北方領土問題も未解決のままである。日ソ共同宣言は、戦後日本の国際的地位を確立した歴史的史料であると同時に、今日に続く困難な外交課題の原点ともなっている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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