ブルガーニン
【概説】
1956年の日ソ共同宣言において、ソ連側の全権として日本の鳩山一郎首相とともに署名したソビエト連邦の政治家。ポスト・スターリン期のソ連において閣僚会議議長(首相)を務め、対日国交回復や冷戦期の対外妥協路線を推進した。
日ソ国交回復交渉と共同宣言への調印
1953年のスターリンの死去以降、ソビエト連邦では集団指導体制がしかれ、西側諸国との緊張緩和(いわゆる「雪解け」)を模索する「平和共存」外交が展開された。この流れの中で、第二次世界大戦によって断絶していた日本とソ連との国交正常化交渉が本格化する。
1956年10月、日本の鳩山一郎首相が病を押してモスクワを訪問し、直接交渉に臨んだ。領土問題(北方領土の帰属)については合意に至らなかったものの、平和条約締結後に歯舞群島・色丹島を日本に引き渡すことで合意し、まずは国交を回復させる「共同宣言方式」が採用された。この日ソ共同宣言(10月19日調印)において、ソ連側の全権として署名したのが、当時の閣僚会議議長(首相)であったブルガーニンである。この宣言によって日ソ間の戦争状態は終結し、外交関係が回復したことで、日本の国際連合加盟への道が開かれることとなった。
ポスト・スターリン期の権力闘争とブルガーニンの失脚
ブルガーニンは、1955年にマレンコフの後任として閣僚会議議長に就任し、ソビエト共産党第一書記のフルシチョフとともにソ連の指導部を構成した。二人は「B・Kコンビ」として西側諸国や第三世界を精力的に訪問し、共同指導体制をアピールした。
しかし、党の実権を握るフルシチョフとの関係は次第に悪化していった。1957年、フルシチョフの急速な改革方針に反発するモロトフやマレンコフらが起こした「反党グループ事件」(フルシチョフ解任の試み)において、ブルガーニンは日和見的な態度をとり、一時は反フルシチョフ派に同調した。この試みが失敗に終わると、翌1958年には閣僚会議議長を更迭され、フルシチョフが首相を兼任することとなる。政治的に失脚したブルガーニンは、地方の経済評議会議長などの閑職に回され、1960年には年金生活に入り、歴史の表舞台から完全に退いた。