石油
【概説】
昭和時代中期のエネルギー革命によって石炭に代わり、産業の動力や化学製品の原料の主役となった化石燃料資源。戦後の重化学工業化と高度経済成長を根底から支えた一方で、海外からの輸入に極度に依存する体制は、二度にわたる石油危機(オイルショック)を引き起こし、日本経済と産業構造に劇的な転換をもたらした。
戦前日本における戦略的物資としての石油
近代以降、内燃機関の発達に伴い、石油は艦船や航空機などを動かす軍事的に不可欠な戦略物資となった。しかし、日本国内における石油産出量は新潟や秋田などでわずかに採掘されるのみであり、需要の大部分をアメリカなどからの輸入に依存していた。日中戦争が泥沼化するなか、1941(昭和16)年にアメリカ、イギリス、オランダなどが対日経済封鎖(いわゆるABCD包囲陣)を強化し、アメリカが対日石油全面禁輸措置に踏み切ったことは、日本を太平洋戦争へと駆り立てる決定的な要因となった。日本軍は石油資源の確保を第一目標として、当時オランダ領であったインドネシア(蘭印)などの南方資源地帯へと軍事侵攻することになる。
エネルギー革命と高度経済成長の牽引
戦後の日本経済が復興を遂げた1950年代後半以降、中東地域での大規模油田の開発が進み、液状で輸送や貯蔵が容易な石油が安価かつ大量に供給されるようになった。これに伴い、日本の主要な一次エネルギー源は、国内で採掘される固体の石炭から輸入石油へと急速に転換した。この劇的な変化はエネルギー革命と呼ばれ、価格競争力を失った国内の炭鉱は次々と閉山に追い込まれ、1960年の三池争議などに代表される激しい労働争議も発生した。
安価な石油の大量供給は、日本の高度経済成長を力強く牽引した。太平洋ベルト地帯の沿岸部には巨大な石油化学コンビナートが次々と建設され、合成繊維、プラスチック、合成ゴムなどの新素材が大量生産されるようになった。これにより日本の産業は、従来の軽工業中心から重化学工業中心へと大きく飛躍したが、同時に四日市ぜんそくに代表される大気汚染などの深刻な公害問題を引き起こす負の側面も持ち合わせていた。
二度の石油危機と狂乱物価
高度経済成長期を通じて、日本のエネルギー供給における石油の割合は7割を超え、その大半を中東地域に依存する脆弱な体制ができあがっていた。1973(昭和48)年、第四次中東戦争の勃発に伴い、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が原油の生産削減と禁輸措置を発表すると、原油価格は一挙に4倍に跳ね上がった(第1次石油危機)。
この事態は日本国内でトイレットペーパーや洗剤の買い占め騒動などのパニックを引き起こし、便乗値上げも相まって「狂乱物価」と呼ばれる異常なインフレーションを招いた。翌1974年には戦後初のマイナス成長を記録し、1950年代半ばから続いた高度経済成長は完全に終焉を迎えた。さらに、1979(昭和54)年にはイラン革命を契機とする第2次石油危機が発生し、日本経済は再び厳しい試練に立たされることとなった。
産業構造の転換と省エネルギー社会への移行
二度の石油危機による大打撃は、日本の経済・産業構造を根本から見直す転機となった。政府や産業界は、エネルギー消費の効率化を目指して徹底した省エネルギー技術の開発・導入を進めた。その結果、鉄鋼や石油化学などの多量のエネルギーを消費する「重厚長大」型の産業から、自動車やエレクトロニクス、半導体といった付加価値が高くエネルギー消費の少ない「軽薄短小」型の知識集約型産業へと、劇的な産業構造の転換が図られた。
また、石油への過度な依存から脱却するため、国策として原子力発電の推進や液化天然ガス(LNG)の導入など、代替エネルギーへの転換が急ピッチで進められた。石油は近代日本の歴史において、単なる一燃料にとどまらず、国家の存亡や未曾有の経済成長を左右し、現代に至る社会構造の基盤を規定し続けてきた極めて重要な存在であるといえる。