三井三池争議

1960年、エネルギー革命を背景とした大量指名解雇に対して、福岡県の炭鉱労働者が激しいストライキを展開した戦後最大の労働争議は何か?
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重要度
★★

三井三池争議 (みついみいけそうぎ)

1959〜1960年

【概説】
福岡県の三井鉱山三池鉱業所(三池炭鉱)で発生した、戦後日本最大規模の労働争議。エネルギー転換政策に伴う大量解雇に対して労働組合が激しく抵抗し、経営者側(総資本)と労働者側(総労働)が全面的に激突する社会現象となった。同年の「安保闘争」と並び、1960年の日本社会を揺るがした二大事件の一つである。

エネルギー革命と「炭利共労」の崩壊

1950年代後半、日本の産業界では主要な燃料資源が石炭から石油へと移行するエネルギー革命が急速に進行した。これにより、国内の石炭産業は構造的な不況に陥り、深刻な「斜陽産業」となった。政府もこれに呼応して「石炭合理化政策」を推進し、炭鉱の閉山や人員整理を進めていく。

日本最大の炭鉱であった三井鉱山三池鉱業所でも、累積赤字を解消するために大幅な合理化が避けられない状況となった。しかし、三池炭鉱の労働組合(三池労組)は、日本労働組合総評議会(総評)傘下の単一組織である日本炭鉱労働組合(炭労)の中でも最強の組織力と戦闘性を誇っていた。会社側は1959年、経営再建策として数千人規模の希望退職を募ったが、労組側はこれを拒否。これに対し会社側は、運動の核心メンバーである「活動家」を狙い撃ちにした1278名の指名解雇を通告した。これにより、労使の対立は決定的なものとなった。

「総資本対総労働」の激突と第二組合の結成

1960年1月、会社側が炭鉱のロックアウト(作業所閉鎖)を強行すると、三池労組は無期限ストライキでこれに対抗した。この闘争は、日本経済団体連合会(経団連)などの経営者団体が背後で三井鉱山を全面的に支援し、一方で総評や日本社会党などの革新勢力が三池労組を全面的にバックアップしたことから、「総資本対総労働の対決」と呼ばれた。日本全国から数万人規模の支援労働者や学生が三池に集結し、ピケライン(監視線)を張って会社側と対峙した。

長期化する争議の中で、生活の困窮に耐えかねた一部の労働者や、組合の急進化に反対する層が脱退し、会社側の支援を受けて「第二組合(新労)」を結成した。これにより、職場や地域社会は第一組合(組夫)と第二組合(新労)に真っ二つに分断され、深刻な対立が生じた。争議現場には会社側が雇った暴力団員が投入され、第一組合員が刺殺されるという流血の惨事まで発生した。ホッパー(貯炭槽)周辺での両組合員による衝突は一触即発の緊迫した状況に達し、警官隊が大量に動員される事態となった。

争議の終結と労働運動史における歴史的意義

泥沼化する事態を収拾するため、中央労働委員会(中労委)の藤林敬三会長が調停に入り、1960年8月に「藤林斡旋案」が提示された。その内容は、「指名解雇された労働者は一度退職し、その後は別会社などに再就職させる」という、実質的に会社側の指名解雇を認めるものであった。激しい議論の末、これ以上の流血と分裂を避けるため、三池労組および炭労は同年11月にこの斡旋案を受諾し、11ヶ月に及んだストライキは終結した。

三井三池争議における労組側の敗北は、日本の労働運動史における大きな転換点となった。これ以降、日本の労働運動はそれまでの対決型・階級闘争型から、生産性の向上に協力しつつ果実の配分を求める労使協調路線(企業内組合主義)へと急速にシフトしていく。また、この敗北によって石炭産業の縮小は決定的なものとなり、多くの炭鉱労働者が離職を余儀なくされ、産炭地域の過疎化と衰退が加速することとなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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