佐藤栄作内閣
【概説】
1964年から1972年まで約7年8ヶ月にわたって続いた、昭和時代の長期政権。
池田勇人内閣から政権を引き継ぎ、「いざなぎ景気」と呼ばれる高度経済成長の頂点を迎える中、日韓基本条約の締結や沖縄返還、非核三原則の提唱など、戦後日本の外交・安全保障の骨格を形成する数々の歴史的課題を処理した。
高度経済成長の光と影への対応
1964年11月、東京オリンピック直後に病気退陣した池田勇人の後継として成立した佐藤栄作内閣は、前内閣の「所得倍増」路線を基本的に継承しつつ、成長の歪みを是正するために「社会開発」と「人間尊重」をスローガンに掲げた。この時期の日本経済は、1965年の証券不況(昭和40年不況)を戦後初の赤字国債発行によって乗り切った後、57か月に及ぶいざなぎ景気と呼ばれる未曾有の長期好況を謳歌し、1968年には国民総生産(GNP)で西ドイツを抜き、資本主義国第2位の経済大国へと躍進を遂げた。
しかし、急速な工業化と都市化の代償として、水質汚濁や大気汚染などの公害問題が全国各地で深刻化を極めた。これに対し佐藤内閣は、1967年に公害対策基本法を制定し、1970年のいわゆる「公害国会」で関連14法案を一挙に成立させ、翌1971年には環境庁を新設するなど、環境行政の基盤整備を迫られた。また、社会的な矛盾は若者層の不満にも直結し、ベトナム反戦運動と結びついた70年安保闘争や、全共闘による大学紛争が激化したため、1969年に大学の運営に関する臨時措置法を成立させて事態の沈静化を図っている。
日韓基本条約と冷戦下のアジア外交
外交面における佐藤内閣の最初の大きな成果は、1965年の日韓基本条約の締結であった。これにより日本は大韓民国を朝鮮半島における唯一の合法政府として承認し、両国間の国交が正常化された。日本から韓国に対する総額5億ドルにのぼる無償・有償の経済協力が約束され、韓国の「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を後押しすることとなった。この国交正常化は、泥沼化するベトナム戦争を背景に、極東における反共陣営(日米韓)の結束を強化したいアメリカの強い意向も働いていた。
「戦後」の総決算としての沖縄返還
佐藤内閣の最大の歴史的意義は、戦後長らくアメリカの施政権下におかれていた領土の返還を実現したことである。佐藤は1965年に戦後の首相として初めて沖縄を訪問し、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって戦後は終わらない」と宣言し、これを政権の最重要課題と位置づけた。1968年には小笠原諸島の返還を実現し、翌1969年の佐藤・ニクソン会談において、日米安全保障条約の自動延長を前提に、1972年中の「核抜き・本土並み」での沖縄返還という日米共同声明を発表した。
この沖縄返還交渉の過程で、佐藤は1967年に国会で核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」とする非核三原則を表明した。これと同時に「武器輸出三原則」も打ち出され、戦後日本の平和国家としての基本姿勢が明文化された。これらの功績が国際社会に評価され、佐藤は1974年に日本人として初めてノーベル平和賞を受賞することになる。
ニクソン・ショックと政権の終焉
長期にわたって安定を誇った佐藤政権であったが、末期には国際情勢の急激な変化に翻弄された。1971年、アメリカのニクソン大統領は事前の相談なく電撃的な中国訪問を発表し、さらにドルと金の交換停止(ドル・ショック)を発表した。これら二つのいわゆるニクソン・ショックは、対米協調を最優先してきた佐藤内閣に大きな打撃を与えた。
特に日中関係においては、アメリカの頭越しの日中接近や、1971年の国連における中華人民共和国の代表権承認(アルバニア決議)に対し、台湾(中華民国)との関係を重視する佐藤内閣は対応が遅れ、世論や経済界から国交正常化を求める声が急速に高まった。日米繊維摩擦などの経済的懸案も重なる中、佐藤は最大の悲願であった1972年5月15日の沖縄返還を見届けた後、同年7月に内閣総辞職を行った。その連続在任日数2798日は、のちに安倍晋三内閣に更新されるまで日本の憲政史上最長記録として残った。