沖縄返還(本土復帰)
【概説】
1972(昭和47)年5月15日、第二次世界大戦後長らくアメリカの施政権下にあった沖縄が日本へ復帰した出来事。佐藤栄作内閣とニクソン米大統領との日米交渉を経て実現したが、広大な米軍基地は存続し、現在に至るまで大きな課題を残している。
アメリカの施政権下と「島ぐるみ闘争」
1945年の沖縄戦を経て、沖縄はアメリカ軍の直接統治下に置かれた。1951年に署名されたサンフランシスコ平和条約の第3条において、琉球諸島および大東諸島はアメリカの施政権下に置かれることが法的に確定し、日本本土から切り離された。冷戦が激化する中、アメリカは沖縄を「太平洋の要石(キーストーン)」と位置づけ、極東における最大の軍事拠点として基地建設を推進した。1950年代には、米軍が「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる強制的な手段で農民から土地を接収し、これに対する住民の反発は、全島規模の抵抗運動である島ぐるみ闘争へと発展した。
ベトナム戦争と復帰運動の激化
1960年代に入り、アメリカがベトナム戦争に本格介入すると、沖縄は直接の出撃拠点や兵站基地として利用された。B52爆撃機の墜落事故や米兵による凶悪犯罪、さらには毒ガス兵器の貯蔵が発覚するなど、住民の生命と安全を脅かす事態が相次いだ。このような状況下で、沖縄県民の間で日本国憲法の下での平和と人権を求める声が高まり、1960年に結成された沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を中心に、本土復帰を求める大衆運動が急速に盛り上がった。1968年には、初の琉球政府行政主席の公選が行われ、即時無条件復帰を掲げた屋良朝苗が当選を果たした。
佐藤栄作内閣による日米交渉と「核抜き・本土並み」
沖縄の返還は、日本国内でも戦後処理の最重要課題として認識されるようになった。1965年に沖縄を訪問した佐藤栄作首相は、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国の戦後は終わらない」と演説し、返還交渉に本格的に乗り出した。1969年11月、佐藤首相とアメリカのニクソン大統領による日米首脳会談が行われ、共同声明において1972年の沖縄返還が合意された。この際、日本側は非核三原則の適用による「核抜き」と、米軍基地の運用を日米安全保障条約および関連取り決めの枠内とする「本土並み」での返還を原則とした。ただし、有事の際の核兵器持ち込みに関する密約が存在していたことが、後の外交文書公開などで明らかになっている。
沖縄返還協定の調印と残された課題
1971年6月に沖縄返還協定が調印され、翌1972(昭和47)年5月15日、ついに沖縄は日本へと復帰し、沖縄県が再発足した。しかし、県民が望んだ「基地のない平和な島」の実現には程遠く、広大な米軍基地の大半はそのまま維持されることとなった。また、日米地位協定が適用されることで、米軍や米兵に対する日本の警察権や裁判権の行使には制約が伴うことになった。沖縄返還は日本にとって戦後史の大きな節目であったが、国土面積のわずか0.6%の沖縄県に、全国の在日米軍専用施設の約7割が集中するといういびつな構造は固定化され、経済振興や基地負担の軽減策を含め、現在に至るまで日本社会全体に重い課題を突きつけ続けている。