沖縄返還協定
【概説】
1971年に日米間で調印され、第二次世界大戦後からアメリカの施政権下にあった沖縄の日本復帰を定めた協定。佐藤栄作内閣とニクソン政権による合意に基づき「核抜き・本土並み」の返還を実現し、翌1972年5月に発効した。一方で、広大な米軍基地の多くが存続し、現在に至る重い課題を残す結果ともなった。
アメリカの施政権下と祖国復帰運動の高まり
第二次世界大戦における沖縄戦を経て、1952年発効のサンフランシスコ平和条約第3条により、沖縄(琉球諸島)および小笠原諸島はアメリカの施政権下に置かれた。冷戦体制のもと、アメリカは沖縄を太平洋における「キーストーン(要石)」と位置づけ、広大な軍事基地を建設した。特に1960年代後半からのベトナム戦争では、沖縄が爆撃機B52の発進基地や前線への補給基地として機能した。
こうした状況下で米軍関係者による事件や事故が頻発し、沖縄県民の不満は限界に達していた。1960年に結成された沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を中心に、平和憲法の下への復帰を求める大衆運動が激化し、1970年には米軍車両の焼き討ちなどに発展したコザ暴動が発生する。アメリカにとっても、激しい反米感情を抱える中での強権的な支配維持は、極東における軍事戦略上、限界を迎えつつあった。
日米首脳会談と「核抜き・本土並み」の合意
日本本土でも沖縄返還を求める世論が沸騰し、1964年に就任した佐藤栄作首相は翌年の沖縄訪問時に「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国の戦後は終わらない」と宣言、返還交渉を内閣の最重要課題に据えた。アメリカ側も日米安全保障体制を安定的に維持するためには、沖縄を返還して日本のナショナリズムを鎮める必要があると判断した。
1969年11月、佐藤首相とニクソン大統領による日米首脳会談が行われ、日米共同声明が発表された。ここで、1972年中の返還を目指すこと、そして沖縄の米軍基地の扱いは日米安全保障条約および関連諸協定を適用し、核兵器を撤去する「核抜き・本土並み」での返還が合意されたのである。
協定の調印と沖縄の日本復帰
1969年の共同声明を受けて具体的な実務交渉が進められ、1971年6月17日、東京とワシントンを衛星中継で結ぶ形で、沖縄返還協定(琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定)が調印された。日本側は愛知揆一外務大臣、アメリカ側はロジャース国務長官が署名した。
この協定により、アメリカが保有していた沖縄の行政・立法・司法のすべての権利が日本に返還されることや、アメリカが現地に構築した公社などの資産を日本が約3億2000万ドルで買い取ることなどが定められた。そして1972年5月15日に協定は発効し、沖縄は27年ぶりに日本へ復帰、沖縄県が再設置されるという戦後史の大きな節目を迎えた。
残された課題と「密約」問題
沖縄返還は、戦後日本の悲願であった領土の平和的返還を実現した歴史的快挙であったが、同時に大きな矛盾を抱えていた。最大の課題は米軍基地問題である。「本土並み」と謳われながらも、実際にはアメリカ軍に基地の継続使用が認められ、復帰後も日本の国土面積の約0.6%にすぎない沖縄に在日米軍専用施設の約7割が集中するという過重な負担が残された。
さらに、後に日米間の「密約」の存在が明らかとなり大きな波紋を呼んだ。有事におけるアメリカ軍の核兵器の沖縄への再持ち込みや通過を容認する密約や、本来アメリカが支払うべき軍用地の原状回復補償費を日本政府が肩代わりする密約(西山事件として社会問題化)などが結ばれていたのである。国家間交渉の暗部を象徴するこれらの問題と、過酷な基地負担の現状は、現代の日本政治および日米関係においても未解決の重い課題として引き継がれている。