非核三原則

佐藤栄作首相が国会で表明した、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という日本の国是を何というか?
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★★★

【参考リンク】
非核三原則(Wikipedia)

非核三原則

1967年

【概説】
1967年に佐藤栄作首相が国会答弁で表明した、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」とする日本の基本方針。のちに国会決議として採択され、唯一の戦争被爆国である日本の国是として定着した。

非核三原則の表明とその背景

非核三原則は、1967(昭和42)年12月の衆議院予算委員会において、当時の佐藤栄作首相が答弁の中で表明した「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」とする三つの原則である。この発言の背景には、激動する冷戦下の東アジア情勢と、国内の強い反核世論があった。1964年に中華人民共和国が初の核実験に成功したことで、日本の安全保障政策における核兵器の扱いが国会で重大な論点となっていた。一部の政治家や有識者からは日本独自の核武装論も囁かれるなか、佐藤首相はあえて「核を持たない」という明確な方針を打ち出すことで、国民の不安を払拭しようとしたのである。

「核政策の四本柱」と沖縄返還問題

非核三原則は、単独の理念としてではなく、より現実的な安全保障政策とセットで運用された。佐藤首相は翌1968年、国政の基本方針として核政策の四本柱(非核三原則の堅持、核軍縮に向けた努力、日米安全保障条約に基づくアメリカの核抑止力への依存、原子力の平和利用)を提唱した。これにより、自国の核武装は否定しつつも、アメリカの「核の傘」の下で国の安全を確保するという、戦後日本の安全保障の基本姿勢が確立された。

また、当時最大の外交課題であった沖縄返還交渉においても、非核三原則は重要な役割を果たした。アメリカ施政下の沖縄には多数の核兵器が配備されていたため、日本国内では「核抜き・本土並み」の返還を求める声が高まっていた。非核三原則の表明は、アメリカに対して沖縄からの核兵器撤去を迫るための強力な外交カードとしての意味合いも持っていたのである。

国会決議とノーベル平和賞の受賞

1971年11月、沖縄返還協定が衆議院本会議で可決される際、同時に「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」が採択された。これにより、一内閣の政策方針に過ぎなかった非核三原則は、日本の国是(国家の基本的な方針)として正式に位置づけられることとなった。日本政府はその後も、核拡散防止条約(NPT)への署名・批准を進め、国際的な核軍縮体制に貢献していく姿勢を示した。

これら一連の平和的・非核的な外交政策が国際的に高く評価され、1974年に佐藤栄作は日本人として(またアジア人として)初めてノーベル平和賞を受賞した。非核三原則は、唯一の戦争被爆国としての道義的立場と、複雑な国際政治の現実とをすり合わせる高度な政治的妥協の産物でありながら、戦後日本の平和主義を象徴する重要な概念となったのである。

「持ち込ませず」をめぐる密約問題

非核三原則は日本の国是として広く国民に支持されてきたが、とくに第三の原則である「持ち込ませず」については、長年にわたり形骸化の疑念がつきまとっていた。冷戦期を通じて、核兵器を搭載したアメリカ軍の艦船や航空機が、日本に寄港・飛来しているのではないかという疑惑である。

実際には、日米両政府間で「核兵器を搭載した艦船の寄港や領海の通過は、事前協議の対象となる『持ち込み』には該当しない」とする暗黙の了解、いわゆる日米核密約が存在していたことが後のアメリカの公文書公開などにより判明している。日本政府は長らくこれを否定し続けていたが、2010(平成22)年の外務省の有識者委員会による調査で、広義の密約が存在していた事実が公式に認められた。このように、非核三原則は崇高な平和理念であると同時に、日米安保体制という現実の枠組みの中で、時に矛盾を抱えながら運用されてきたという歴史的側面も忘れてはならない。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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