三木武夫内閣
【概説】
金脈問題で退陣した田中角栄内閣の後を受け、政治浄化と自民党の近代化を掲げて発足した自民党政権。首相となった三木武夫の政治姿勢から「クリーン三木」と呼ばれ、在任中にはロッキード事件の真相究明や政治資金規正法の改正に尽力した。
「椎名裁定」による「クリーン三木」の誕生
1974年、前首相の田中角栄が「金脈問題」(政治資金をめぐる疑惑)によって世論の激しい批判を浴び、退陣に追い込まれた。当時、後継総裁をめぐっては「三角大福(三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫)」の有力派閥間で激しい対立が予想された。自民党副総裁であった椎名悦三郎は、党の分裂と支持率低下を回避するため、あえて少数派閥の領袖であり、クリーンなイメージを持っていた三木武夫を暫定的な後継首班に指名した。これが世に言う「椎名裁定」である。こうして1974年12月に成立した三木武夫内閣は、政治不信の払拭を使命とし、「近代政党への脱皮」を掲げてスタートした。
ロッキード事件の勃発と「三木おろし」の政局
三木内閣にとって最大の試練であり、歴史的転換点となったのが、1976年2月にアメリカの連邦参議院で発覚したロッキード事件である。米国の航空機大手ロッキード社が、日本への旅客機売り込みを巡り政財界へ巨額の賄賂を渡していたとされるこの事件は、前首相の田中角栄の逮捕(同年7月)にまで発展した。三木は事件の「徹底究明」を宣言し捜査を積極的に後押ししたが、これが党内の主流派(田中派、大平派、福田派など)の強い反発を招くこととなった。「党の恥を晒すな」として結束した反三木派により、政権倒閣を目指す激しい「三木おろし」の政治抗争が展開され、党内は機能不全に陥った。
内政・外交の成果と内閣の終焉
激しい内紛に揺れた三木内閣であったが、政治改革の一環として政治資金規正法を改正し、政治寄付の制限を強化するなどの実績を残した。また外交面では、1975年にフランスで開催された第1回主要国首脳会議(ランブイエ・サミット)に日本代表として出席し、先進国首脳との対話を通じて日本の存在感を示した。しかし、党内抗争によって足元が揺らいだ状況は変わらず、1976年12月に行われた衆議院議員総選挙(いわゆる「ロッキード選挙」)で自民党は過半数を割り込む大敗を喫した。この結果を受けて三木は総選挙敗北の責任を取り退陣、後継には福田赳夫が就任した。