先進国首脳会議(サミット)

石油危機後の世界経済の危機を乗り切るため、1975年にフランスのランブイエで第1回が開催された、主要先進国の首脳による会議は何か?
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重要度
★★

先進国首脳会議(サミット)

1975年〜

【概説】
主要資本主義国の首脳が年に1回集まり、世界経済や国際政治の重要課題について協議する最高レベルの国際会議。1973年の第1次石油危機による深刻な世界不況を契機に発足した。日本がアジア唯一のメンバーとして参加したことは、日本の経済大国としての地位を国際的に印象づける重要な契機となった。

第1次石油危機とサミット発足の背景

第二次世界大戦後の世界経済を支えていたIMF(国際通貨基金)とGATT(関税および貿易に関する一般協定)を中心とするブレトン・ウッズ体制は、1971年のドル・ショック(ニクソン・ショック)と変動為替相場制への移行によって大きく揺らいでいた。さらに1973年の第4次中東戦争を契機に発生した第1次石油危機(オイル・ショック)は、先進工業国に激しいインフレと不況が並存するスタグフレーションをもたらし、戦後最悪の経済危機を引き起こした。

このような状況下、個別の国際機関による対応には限界があるとして、フランスのジスカールデスタン大統領の提唱により、主要国の首脳が直接対話を行う場が設けられた。こうして1975年11月、フランスのランブイエで第1回首脳会議が開催された。当初の参加国は、アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツ、イタリア、日本の6カ国(のちにカナダ、ECが加わりG7となる)であった。

日本の参加と「経済大国」としての国際的自立

日本からは三木武夫首相が出席した。アジアから唯一の参加となったことは、明治以来の「脱亜入欧」を経て、日本が名実ともに欧米先進国と並ぶ経済大国として国際社会に認知された象徴的出来事であった。三木首相は会議において、アジアの代表としての立場を意識し、発展途上国の開発支援(南北問題)の重要性を訴えた。

サミットへの参加は、それまでアメリカとの二国間関係を主軸としていた日本の外交方針に、多国間協調外交という新たな柱をもたらした。これ以降、日本は世界経済の安定に対して応分の責任を負うことを求められるようになり、内需拡大や貿易摩擦の解消に向けた政策調整を余儀なくされることにもなった。

経済から政治・安全保障への役割の変容

当初、サミットは世界経済の再建や通貨安定、資源・エネルギー問題の解決といった「経済サミット」としての性格が強かった。しかし、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻を機に、東西対立(新冷戦)が激化すると、西側陣営の結束を示す政治・安全保障上の場(政治サミット)へと変容していった。

特に1980年代の中曽根康弘首相は、1983年のウィリアムズバーグ・サミットにおいて、西側の安全保障は不可分であるとする共同声明の採択に尽力し、日本が西側同盟の一員として政治的役割を果たす姿勢を鮮明にした。冷戦終結後は一時的にロシアが加入してG8となった時期もあったが、2014年のクリミア併合以降は再びロシアが排除され、現在は自由民主主義などの価値観を共有するG7として、地球温暖化、感染症対策、安全保障など広範な地球規模の課題を討議し続けている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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