安定成長(安定成長期)
【概説】
1973年(昭和48年)の第一次石油危機(オイルショック)を契機に高度経済成長が終焉したのち、日本経済が移行した年率4〜5%程度の穏やかな経済成長の時期。企業は「減量経営」を推し進め、日本の産業構造は重化学工業から省エネ・知識集約型のハイテク産業へと大きく転換を果たした。
高度経済成長の終焉と「狂乱物価」
1950年代半ばから年平均10%前後の驚異的な成長を遂げてきた日本経済であったが、1973年(昭和48年)秋に勃発した第4次中東戦争に端を発する第一次石油危機(オイルショック)によって、大きな転換点を迎えた。原油価格の約4倍への引き上げは、エネルギーの大部分を中東からの輸入石油に依存していた日本経済に大打撃を与えた。
石油価格の高騰は各種の便乗値上げや買い占め騒動(トイレットペーパー騒動など)を引き起こし、いわゆる「狂乱物価」と呼ばれる異常なインフレーションを招いた。政府は総需要抑制策をとってインフレの沈静化を図ったが、その結果として企業収益は悪化し、1974年(昭和49年)には戦後初めてとなる実質マイナス成長(マイナス1.2%)を記録した。こうして高度経済成長は完全に終焉し、以後は年率4〜5%程度の安定成長の時代へと移行することとなった。
「減量経営」と産業構造の転換
安定成長期における最大の課題は、高騰したエネルギーコストへの対応であった。各企業は生き残りをかけ、新規採用の抑制、希望退職の募集、経費の削減などによって企業の贅肉を削ぎ落とす「減量経営」を徹底的に推し進めた。
これに伴い、鉄鋼や石油化学、造船といった大量のエネルギーを消費する「重厚長大」な素材産業は構造的な不況に陥り、縮小を余儀なくされた。それに代わって日本経済を牽引するようになったのが、自動車や家庭用電化製品、さらに半導体やコンピュータなどのエレクトロニクス技術を駆使した「軽薄短小」な加工組立型産業・知識集約型産業であった。日本企業は省エネルギー技術の開発や、マイクロエレクトロニクス(ME)の導入による生産工程の自動化、品質管理(QC)の徹底を図り、低成長下においても国際競争力を飛躍的に高めていった。
国際競争力の強化と貿易摩擦の激化
1979年(昭和54年)に発生した第二次石油危機においても、日本は他国に先駆けて省エネ化や合理化に成功していたため、欧米諸国が深刻なスタグフレーション(不況下の物価高)に苦しむなか、相対的に良好な経済的パフォーマンスを維持した。燃費の良い日本製の小型自動車や高品質な半導体、VTRなどは世界市場を席巻し、日本の輸出は急増した。
しかし、こうした輸出主導型の成長は、アメリカをはじめとする欧米諸国との間に深刻な貿易摩擦を引き起こした。特に巨額の対日貿易赤字を抱えたアメリカでは、国内産業の衰退や失業問題と結びついて政治問題化し、日本に対して市場開放や輸出自主規制、内需拡大を強く求めるようになった。
プラザ合意からバブル経済への変質
貿易不均衡を是正するため、1985年(昭和60年)に先進5か国(G5)の財務相・中央銀行総裁会議において、ドル高の是正に向けた協調介入を取り決めるプラザ合意が成立した。これにより外国為替市場では急速な円高ドル安が進行し、輸出産業を中心に打撃を受けた日本経済は一時的な「円高不況」に見舞われた。
この円高不況を脱却し、アメリカの要求に応えるかたちで内需主導型経済への転換を図るため、日本銀行は公定歩合を史上最低水準にまで段階的に引き下げる大胆な金融緩和を実施した。しかし、この金融緩和が生み出した過剰な資金(過剰流動性)は、設備投資ではなく株式や土地などの資産投機に向かった。こうして実体経済の成長率をはるかに超える資産価格の異常な高騰、すなわちバブル経済(1986年〜1991年頃)が引き起こされることになり、実直な技術革新と合理化に支えられた安定成長の時代は、狂騒的な投機ブームのなかで事実上の終わりを告げることとなった。