日中平和友好条約
【概説】
1978年(昭和53年)に福田赳夫内閣のもとで締結され、日本と中華人民共和国の間の平和的・友好的な関係を法的に確立した条約。1972年の日中共同声明に基づく国交正常化を受け、両国間の永続的な平和関係の構築を目指して結ばれた。本条約により、冷戦下の東アジアにおける日中関係の強固な基盤が形成され、その後の本格的な経済・文化交流へと繋がった。
日中国交正常化から条約締結への道程
1972年、田中角栄内閣と周恩来首相との間で発出された日中共同声明により、日本と中華人民共和国は不正常な状態を終結させ、国交を正常化した。この共同声明の第8項において、「両国間の恒久的な平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行う」ことが合意されていた。
しかし、その後の条約締結に向けた交渉は難航した。特に問題となったのが、中国側が強く要求した「反覇権条項」である。当時の中ソ対立の激化を背景に、中国はソ連を牽制する意図から、条約文に「覇権主義への反対」を明記するよう求めた。一方の日本は、特定の第三国(ソ連)を刺激することを避け、「全方位平和外交」を維持する立場からこれに難色を示したため、交渉は一時長期化・停滞を余儀なくされた。
福田赳夫内閣による妥協と「反覇権条項」
停滞していた交渉は、1978年に福田赳夫内閣のもとで再開された。両国の妥協点として、条約の第2条に「いずれの国も、アジア・太平洋地域においても又は他のいかなる地域においても、覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団の試みにも反対する」という反覇権条項を盛り込む一方で、第4条に「この条約は、締約国それぞれの第三国との関係に関する立場に影響を及ぼすものではない」とする文言(第三国条項)を追加した。
これにより、日本側は「覇権反対は特定の国に向けたものではなく、普遍的な平和の原則である」という独自の解釈を成立させ、ソ連への配慮という形を整えることができた。こうして1978年8月12日、北京において園田直外相と黄華外相の間で日中平和友好条約が調印された。
条約の内容と国際社会への影響
本条約は前文と全5か条からなり、主権および領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵、ならびに平和共存の諸原則(いわゆる平和五原則)に基づいて、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させることが規定された。また、経済的・文化的関係の発展と両国民の交流促進も明記された。
この条約の締結は、冷戦下の国際関係に大きな波紋を呼んだ。日本の配慮にもかかわらず、ソビエト連邦は本条約の実質が反ソ的な性格を持つと見なして強く反発し、日ソ関係は一時的に冷却化した。一方でアメリカは、自国の対中接近政策の延長線上にあるとしてこの条約を歓迎し、翌1979年の米中国交正常化への追い風ともなった。
歴史的意義と「改革開放」への寄与
日中平和友好条約の締結により、日中間の政治的・法的な関係整備は完了し、両国関係は新たな時代へと突入した。同年10月には、中国の実質的な最高指導者であった鄧小平副首相が条約の批准書交換のために来日した。鄧小平はこの訪日時に新日鉄やパナソニックなどの近代的な日本の産業施設を視察し、大きな衝撃と感銘を受けた。
この経験は、直後の同年12月に開催された中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議(第十一期三中全会)において、中国が歴史的な改革開放政策へと舵を切る大きな要因となったとされる。以後、日本は莫大な政府開発援助(ODA)を通じて中国の経済近代化を長期にわたり支援することとなり、日中間の貿易や人的交流は飛躍的に拡大していった。現在においても、本条約は「日中四つの政治文書」の柱の一つとして、日中関係の基本原則を規定する極めて重要な法的枠組みとなっている。