福田赳夫内閣

三木武夫内閣のあとに成立し、1978年に日中平和友好条約を調印・締結した内閣は誰の内閣か?
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重要度
★★

福田赳夫内閣 (ふくだたけおないかく)

1976〜1978年

【概説】
1976年12月に三木武夫内閣の後を受けて成立した、自由民主党の福田赳夫を内閣総理大臣とする内閣。外交面において日中平和友好条約の締結や、東南アジア外交の指針となる「福田ドクトリン」の発表など、歴史的な成果を挙げた。しかし、党内抗争の激化や初の自民党総裁予備選挙での敗北により、約2年で退陣へ追い込まれた。

「三木おろし」と「大福密約」による政権発足

1976年、ロッキード事件の徹底糾明を掲げる三木武夫首相に対し、自民党内では「三木おろし」と呼ばれる退陣要求が強まった。同年の第34回衆議院議員総選挙で自民党が過半数を割り込む大敗を喫すると、三木は退陣を表明。その後継として政権を担ったのが、党内実力者の福田赳夫であった。

福田内閣の組閣に際しては、福田とライバル関係にあった大平正芳との間で、2年後に政権を譲るという「大福密約」が交わされていたとされる。このため、福田は「協調と実行」を掲げて党内融和を図り、大平を蔵相(のちに幹事長)に据える挙党体制を構築した。内政面では、第1次石油危機(オイルショック)後の「狂乱物価」を沈静化させ、景気回復に努めるとともに、激しい反対闘争が続く中で1978年5月に新東京国際空港(成田空港)の開港にこぎつけた。

「福田ドクトリン」とアジア外交の新展開

福田赳夫内閣の最大の功績は、戦後日本外交におけるアジア重視の姿勢を明確に打ち出した点にある。福田は1977年8月、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国を歴任した最後の地であるマニラにおいて、対東南アジア外交の3原則(通称:福田ドクトリン)を発表した。

その内容は、①日本は軍事大国にならないこと、②東南アジア諸国と「心と心の触れ合う」相互信頼関係を築くこと、③ASEANと対等なパートナーとして協調し、対立関係にあったインドシナ諸国(ベトナムなど)との架け橋となること、を宣言したものである。これは、それまでの「経済大国」として東南アジアへの進出のみを優先し、現地で反日運動を招いていた姿勢を深く反省し、多国間協調を重視する戦後日本外交の金字塔となった。

日中平和友好条約の締結と内閣の終焉

福田外交のもう一つの頂点が、1978年8月に調印され、同年10月に批准された日中平和友好条約の締結である。1972年の共同声明によって国交は正常化していたものの、覇権主義に反対する文言(覇権条項)の扱いを巡り、ソ連との関係を配慮する日本側と中国側との交渉は難航していた。福田は「全方位平和外交」を掲げつつ、最終的には政治的決断を下して条約締結を実現させ、副首相の鄧小平が批准書交換のために来日した。

これらの外交的成果を背景に、福田は「大福密約」を反故にする形で1978年11月の自民党総裁選挙に再選を目指して出馬した。この選挙から、一般党員・党友が投票に参加する「予備選挙制度」が初めて導入された。福田は「世界に福田あり」と実績を誇示したが、田中角栄元首相(田中派)の強力なバックアップを得た大平正芳の組織力に敗れ、予備選での敗退が決まると本選を辞退。福田赳夫内閣は総辞職し、大平正芳内閣へと引き継がれた。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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