二大政党
【概説】
大正時代後期から昭和時代初期にかけての「憲政の常道」と呼ばれる時期に、交互に政権を担当した「憲政会(のちの立憲民政党)」と「立憲政友会」の2つの主要政党のこと。1924年の加藤高明内閣から1932年の犬養毅内閣崩壊までの8年間、両党の党首が交代で首相を務め、日本における本格的な政党内閣制の黄金期を築いた。
「憲政の常道」の成立
日本史における二大政党とは、大正時代後期から昭和時代初期にかけて、衆議院で第一党となった政党の党首が内閣を組織し、行き詰まれば野党の第一党に政権を譲るという、いわゆる「憲政の常道」の時期に政権を担った2つの巨大政党を指す。
1924年(大正13年)、貴族院主導の超然内閣である清浦奎吾内閣に対して起こった第二次護憲運動の結果、護憲三派(憲政会・立憲政友会・革新倶楽部)が総選挙で大勝し、憲政会総裁の加藤高明が首相に就任した。これ以降、1932年(昭和7年)の五・一五事件による犬養毅内閣の崩壊に至るまでの8年間、憲政会(1927年に立憲民政党へと改組)と立憲政友会の二大政党が交互に政権を担当することとなった。この時期は、大正デモクラシーの潮流が生み出した日本の政党政治の到達点として高く評価されている。
立憲政友会と憲政会(立憲民政党)の対立軸
この二大政党は、それぞれ明確に異なる支持基盤と政策的特徴を持っていた。
伊藤博文によって創設された伝統を持つ立憲政友会は、地方の地主や農村部を強固な支持基盤とし、巨大財閥である三井財閥との結びつきが強かった。政策的には、鉄道敷設や地方への利益誘導を伴う積極財政を掲げ、外交面では中国に対する強硬外交(田中義一内閣など)を展開する傾向にあった。
一方、憲政会(のちに政友本党の一部と合流して立憲民政党)は、都市部の商工業者や新中間層を主な支持基盤とし、三菱財閥と密接な関係を持っていた。政策面では、インフレ抑制や金解禁を目指す緊縮財政を重視し、外交面では英米との協調や中国への内政不干渉を基本とする協調外交(幣原喜重郎による幣原外交など)を推進した。
二大政党制の歴史的意義と直面した課題
二大政党時代の幕開けとなった加藤高明内閣のもとで、1925年に普通選挙法が制定され、満25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられた。これにより、一部の特権階級だけでなく広く大衆の意向が国政に反映される素地が整い、二大政党制は名実ともに近代的な議会政治の形態へと発展した。しかし同時に、国体変革や私有財産制度の否認を取り締まる治安維持法が制定されるなど、体制を維持するための強権的な側面も持ち合わせていた。
また、政党間の権力闘争が激化する中で、互いのスキャンダルを暴き立てる暴露戦術が横行した。さらに、全国的な選挙には莫大な資金が必要であったため、両党ともに特権的な財閥との癒着を深め、多くの疑獄事件を引き起こした。このような政党政治の腐敗は、次第に国民の深刻な政治不信を増幅させることとなった。
政党内閣の崩壊と二大政党の終焉
1920年代後半から1930年代にかけて、日本は昭和金融恐慌や世界恐慌による深刻な不況に見舞われた。これに加えて、1931年の満州事変の勃発など内外の危機が激化すると、政党内閣はこれらの難局に有効な対策を打ち出すことができず、軍部や右翼勢力からの強い批判を浴びた。
そして1932年(昭和7年)、海軍の青年将校らによる五・一五事件で立憲政友会総裁の犬養毅首相が暗殺されると、後継内閣には海軍大将の斎藤実が就任し、8年間続いた「憲政の常道」はあっけなく崩壊した。その後も両党は議会内の勢力として存続したが、日中戦争の長期化に伴う国家総動員体制の構築が進む中、1940年(昭和15年)の新体制運動によって自発的な解党に追い込まれ、大政翼賛会へと合流することで日本の二大政党時代は完全に幕を閉じた。