憲政の常道
【概説】
1924年(大正13年)の加藤高明内閣から1932年(昭和7年)の犬養毅内閣までの約8年間にわたり続いた、衆議院の多数派政党の党首が内閣を組織するという政治的慣習。大正デモクラシーの結実として成立し、立憲政友会と憲政会(のち立憲民政党)の二大政党が交互に政権を担当する議院内閣制的な運用が行われた。
第二次護憲運動と「憲政の常道」の成立
大日本帝国憲法下では、内閣総理大臣の任命権は天皇にあり、実質的には元老が後継首相を推奏(推薦)して決定されていた。そのため、現在の日本国憲法のように「国会議員のなかから国会の議決で指名する」という明確な議院内閣制の規定は存在しなかった。
しかし、大正時代に入ると民衆の政治参加を求める大正デモクラシーの潮流が高まりを見せる。1924年、貴族院議員を中心に組織された清浦奎吾内閣に対し、政党を無視した特権階級による政治であるとして第二次護憲運動が勃発した。憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の「護憲三派」は同年の総選挙で圧勝し、これを受けた元老・西園寺公望は、第一党となった憲政会総裁の加藤高明を首相に推奏した。
これを機に、衆議院の多数党の党首が政権を担い、仮にその内閣が失政などで行き詰まり退陣した場合には、野党第一党に政権を譲るという不文律が定着した。これが「憲政の常道」と呼ばれる慣習の始まりである。
二大政党による政権交代のメカニズム
この時期の政治を牽引したのは、立憲政友会と、憲政会を前身とする立憲民政党(1927年結成)という二大政党であった。イギリスの議院内閣制を理想とした元老・西園寺公望の意向も働き、政権の交代はこの二党間で規則的に行われた。
例えば、1927年の昭和金融恐慌への対応で第1次若槻礼次郎内閣(憲政会)が枢密院と対立して総辞職すると、野党であった政友会総裁の田中義一に大命が降下した。その後、田中内閣が張作霖爆殺事件の処理を巡り昭和天皇の不興を買って退陣すると、今度は民政党総裁の浜口雄幸が組閣するといった具合である。政権担当能力を持つ二つの巨大政党が相互に牽制し合いながら交互に政権を担う構造は、政党間のチェック・アンド・バランスを機能させる役割を果たした。
政党政治の腐敗と大衆の不満
加藤高明内閣期の1925年には普通選挙法が制定され、25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられた。これにより大衆の意向が政治に反映される基盤が整ったかに見えた。
しかし、莫大な選挙資金を必要とするようになった政党は、次第に特定の大企業や財閥との癒着を深めていった。政友会は三井財閥、民政党は三菱財閥と結びつきを強め、数々の疑獄事件(汚職事件)を引き起こした。さらに、1929年に発生した世界恐慌に端を発する昭和恐慌による深刻な経済危機や、農村の窮乏に対し、政党内閣は有効な対策を打ち出せず、党利党略に走る政党に対する国民の失望と不信感は急速に高まっていった。
五・一五事件による崩壊と歴史的意義
国内外の危機に対応できない政党政治に対し、国家革新を掲げる右翼や軍部急進派が台頭する。1931年の満州事変によって軍部の独走が顕著になる中、1932年(昭和7年)5月15日、海軍の青年将校らによって当時の首相・犬養毅(政友会総裁)が暗殺される五・一五事件が発生した。
事件後、後継首相の選定を迫られた西園寺公望は、政党間の対立の激化や軍部の強い反発を考慮し、政党内閣の継続を断念した。西園寺は海軍穏健派で元朝鮮総督の斎藤実を推奏し、挙国一致内閣が成立した。これにより、約8年続いた「憲政の常道」は崩壊し、以後の日本は軍部や官僚が主導する時代へと突入していく。
「憲政の常道」は最終的に軍部の台頭を止められず崩壊したものの、大日本帝国憲法という君主大権が強い枠組みの中で、政党人たちが議院内閣制の実質的な運用に挑戦し、一時的にせよそれを実現させたことは、日本の民主主義発達史において極めて重要な到達点と評価されている。