加藤高明内閣
【概説】
1924年(大正13年)、第二次護憲運動の成功を受けて成立した護憲三派(憲政会・立憲政友会・革新倶楽部)による連立政党内閣。普通選挙法と治安維持法を制定し、日ソ基本条約を結ぶなど、大正デモクラシー期を代表する数多くの歴史的業績を残した。この内閣の成立から1932年の犬養毅内閣崩壊まで、衆議院の多数党が交代で政権を担当する「憲政の常道」の時代が続いた。
第二次護憲運動の結実と政党内閣の復活
1924年(大正13年)、超然主義的な貴族院中心の清浦奎吾内閣が成立すると、これに反対する政党や民衆によって第二次護憲運動が巻き起こった。憲政会(総裁・加藤高明)、立憲政友会(総裁・高橋是清)、革新倶楽部(犬養毅)の三党は「護憲三派」を結成し、「政党内閣制の確立」などを掲げて第15回総選挙に臨んだ結果、圧倒的勝利を収めた。
これを受けて清浦内閣は総辞職し、同年6月、衆議院第一党となった憲政会の加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立した。1918年の原敬内閣以降、高橋是清内閣を最後に政党内閣は一時途絶えていたが、加藤内閣の誕生により本格的な政党内閣が復活したのである。以後、1932年(昭和7年)の五・一五事件で犬養毅内閣が倒れるまでの8年間、衆議院の多数党が政権を担当する「憲政の常道」と呼ばれる時代が幕を開けることとなった。
普通選挙法と治安維持法の制定
加藤高明内閣の最大の内政的業績は、1925年(大正14年)に成立した普通選挙法(衆議院議員選挙法改正)である。長年にわたる普選運動の成果として、従来の直接国税3円以上の納税要件が撤廃され、「満25歳以上の男子」すべてに選挙権が与えられた。これにより、有権者数は約300万人から約1200万人に激増し、人口比で見ても約5%から約20%へと拡大するなど、大正デモクラシーにおける政治的民主化の大きな到達点となった。
一方で、普通選挙の導入によって無産階級(労働者や農民)の政治的発言力が高まり、社会主義や共産主義思想が拡大することを政府は強く警戒した。そのため、同年に治安維持法を制定し、「国体の変革」や「私有財産制度の否認」を目的とする結社の組織や参加を厳罰に処することとした。普通選挙法による政治参加の拡大という「アメ」と、治安維持法による急進的な思想弾圧という「ムチ」は、表裏一体の政策として機能し、その後の日本の針路に決定的な影響を与えることとなる。
日ソ基本条約の締結と協調外交
外交面においては、外相の幣原喜重郎のもとで国際協調路線の外交(幣原外交)が展開された。最大の懸案事項であったソビエト連邦との関係においては、1925年1月に日ソ基本条約を締結して正式に国交を樹立した。
1917年のロシア革命以降、日本はシベリア出兵などでソ連に敵対的な態度をとり続け、北サハリン(北樺太)の保障占領を続けていた。しかし、英仏などの列強が次々とソ連を承認する中、日本も国際的孤立を避けるために国交正常化に踏み切ったのである。条約の締結により、日本は北サハリンから軍隊を撤退させる代わりに、同地における石油や石炭などの利権を獲得した。なお、このソ連との国交樹立に伴う国内での共産主義思想の蔓延(赤化)への恐れも、前述の治安維持法制定の強い動機の一つであった。
宇垣軍縮と内政改革
当時の日本は、第一次世界大戦後の慢性的な不況や関東大震災(1923年)の復興費負担により、深刻な財政難に陥っていた。加藤内閣は緊縮財政を掲げ、陸軍大臣の宇垣一成を中心に大規模な軍縮(宇垣軍縮)を断行した。陸軍の4個師団(約3万4000人)を削減して経費を節減する一方で、浮いた予算を戦車や航空機などの軍備近代化に充てた。また、削減された将校のポストを確保する目的も兼ねて、中学校以上の学校に現役将校を配属して軍事訓練を行う「学校教練」を導入し、のちに軍部と教育の結びつきを強める結果も招いた。
さらに、貴族院が政党政治の障害となっていたことから貴族院改革案を成立させ、華族議員の定数を削減し、帝国学士院会員などの学識経験者枠を新設するなどして、貴族院における特権階級の勢力を相対的に弱めることにも成功した。
内閣の変遷と歴史的意義
このように大正デモクラシーの要求に次々と応え、多大な業績を上げた加藤内閣であったが、連立政権の宿命として内部対立が生じるようになる。特に税制整理などを巡って憲政会と立憲政友会が対立し、1925年8月に政友会と革新倶楽部(一部は政友会に合流)が連立から離脱した。加藤は一度辞表を提出したものの、再び組閣の大命を受け、憲政会単独内閣(第二次加藤内閣)を発足させた。
しかし翌1926年(大正15年)1月、帝国議会の開会中に加藤高明が急死したため内閣は総辞職した。後継政権は同党の若槻礼次郎が引き継いだ。
加藤高明内閣は、普通選挙制の確立や平和的な協調外交など、近代日本の民主化に多大な貢献を果たした一方で、治安維持法の制定や学校教練の導入など、後の軍国主義やファシズム体制を支える装置を生み出してしまったというアンビバレント(両義的)な性格を持っている。良くも悪くも、大正時代から昭和初期にかけての日本社会の骨格を決定づけた、日本近現代史における最重要内閣の一つであると言える。