大平正芳内閣 (おおひらまさよしないかく)
【概説】
福田赳夫内閣の後を受けて1978年12月に成立した、自由民主党の大平正芳を首相とする内閣。自民党内の激しい派閥抗争に翻弄され、増税路線の挫折や内閣不信任案の可決を経験した。日本政界史上初となる衆参同日選挙の最中に大平首相が急死するという、激動の結末を迎えたことで知られる。
「四十日抗争」と自民党内の派閥対立
大平正芳は、1978年11月の自民党総裁予備選挙において、田中角栄派などの強力な支援を得て現職の福田赳夫を破り、同年12月に内閣を組織した。大平は「家庭基盤の充実」や「田園都市国家構想」など、文化や生活の質を重視する穏健な政策を掲げたが、その政権運営は当初から党内非主流派(福田派・三木派・中曽根派など)との深刻な対立に悩まされた。
1979年10月の第35回衆議院議員総選挙において、大平首相は財政再建を目的とした一般消費税の導入を打ち出したが、世論の猛反発を浴びて自民党は過半数を割り込む大敗を喫した。この敗北をめぐり、非主流派は大平の退陣を強く要求。両者の妥協はつかず、特別国会での首相指名選挙において、自民党から大平正芳と福田赳夫の2人が立候補して決選投票で争うという前代未聞の事態となった。この泥沼の権力闘争は、大平が辛勝して第二次内閣を組織するまで約40日間に及んだため、四十日抗争と呼ばれる。
不信任案可決と「ハプニング解散」
四十日抗争を経て大平政権の足元は極めて脆弱なものとなった。1980年5月、野党の日本社会党は大平内閣に対する不信任決議案を提出した。主流派の切り崩しを警戒した自民党非主流派の本会議欠席により、この不信任案は想定外の形で可決されることとなった。この予想外の政局展開はハプニング解散(またはハプニング不信任)と呼ばれる。
大平首相は退陣を選ばず、衆議院を解散して参議院議員通常選挙と同日に総選挙を行う、史上初の衆参同日選挙に打って出る決断を下した。これにより、自民党は党内抗争を一時棚上げし、挙党態勢で選挙に臨まざるを得ない状況へと追い込まれた。
首相の急死と選挙の結末
1980年6月、過酷なダブル選挙の遊説中に、大平首相は心不全により突如急死した。現職首相の死という衝撃的な事態に対し、有権者の間には「同情票」と呼ばれる心理が働き、投票率は大きく跳ね上がった。結果として、自民党は衆参両院で安定多数を大きく上回る圧勝を収めた。
大平の急死によって党内の派閥抗争は一時的に沈静化し、選挙後は後継首班として「和の政治」を掲げる鈴木善幸が選ばれ、鈴木善幸内閣が成立することとなった。大平正芳内閣の終焉は、高度経済成長期の終焉に伴う財政再建問題と、自民党内の派閥ダイナミクスが最も先鋭化した一時代を象徴している。