翼賛政治会 (よくさんせいじかい)
【概説】
太平洋戦争期の1942年、第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)の直後に結成された帝国議会における唯一の政治結社。東条英機内閣の戦争遂行を全面的に支える「翼賛議会」の中核組織である。これにより、大正時代から続いた政党政治の系譜は完全に途絶え、議会の一国一党体制が完成した。
結成の背景と「翼賛選挙」によるお膳立て
1940年(昭和15年)、第2次近衛文麿内閣のもとで進められた新体制運動により、立憲政友会や立憲民政党などの既成政党はすべて解党し、挙国一致組織である大政翼賛会が結成された。しかし、大政翼賛会は公事結社と規定されたため、憲法上の制約から政治活動や選挙運動を直接行うことができなかった。そこで、議会を政府・軍部の意のままに動かすための新たな政治支配の仕組みが必要となった。
1942年4月、大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦後初となる第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)が実施された。この選挙では、元首相の阿部信行を首班とする「翼賛政治体制協議会」が、政府・軍部の方針に協力的とみなした候補者を「推薦候補」として公認・支援した。選挙の結果、推薦候補が定数466議席のうち381議席を獲得して圧勝し、批判的な非推薦候補(鳩山一郎や芦田均など)は徹底的な弾圧にさらされた。この選挙結果を受けて、当選した推薦議員らを中心に結成されたのが翼賛政治会である。
議会の一国一党化と「協賛」機関への変貌
1942年5月20日に発足した翼賛政治会は、阿部信行を総裁に戴き、衆議院のほぼ全議員(一部の非推薦議員も含む)および貴族院議員の一部を糾合した。これによって帝国議会における政論の対立や派閥争いは否定され、議会は事実上の「一国一党」の状態となった。
大正デモクラシー期において、議会は政府を監視・批判し、国民の意見を反映させる場としての地位を築きつつあった。しかし、翼賛政治会の誕生により、議会は東条英機内閣の提出する膨大な軍事予算や戦時統制立法を無条件で可決・追認するだけの「協賛機関」へと完全に形骸化した。挙国一致の美名のもと、多角的な議論や異論の表出は厳しく制限され、日本のファシズム的統制体制が議会政治の側面からも完成することとなった。
戦局の悪化と「大日本政治会」への改編
1944年(昭和19年)にサイパン島が陥落し、東条内閣が総辞職に追い込まれると、翼賛政治会の内部でも亀裂が生じ始めた。戦局の深刻な悪化を背景に、戦争終結への道を模索する動きや、軍部の指導力に対する批判が非推薦出身の議員らを中心に高まった。岸信介らによる「護国同志会」の結成運動など、挙国一致体制の動揺が顕著になった。
こうした体制の弛緩を阻止し、本土決戦に向けた一億総武装体制を構築するため、1945年(昭和20年)3月に翼賛政治会は解散された。そして、より戦闘的かつ強力な統制組織として、南次郎を総裁とする大日本政治会へと改編された。しかし、すでに敗戦は間近に迫っており、同会は同年8月15日の敗戦直後に解散。所属した議員の大部分は、戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による公職追放の対象となり、戦後日本の政治指導層の交代を促す一因となった。