梅津美治郎 (うめづよしじろう)
【概説】
昭和期に活動した日本の陸軍軍人(大将)。太平洋戦争終戦時の参謀総長であり、1945年9月2日に米戦艦ミズーリ号上で大本営全権として降伏文書に調印した人物である。
陸軍中枢での台頭と「梅津・何応欽協定」
大分県出身の梅津美治郎は、陸軍大学校を優等で卒業後、軍務局長や陸軍次官などの要職を歴任した。寡黙で極めて知的な実務派軍人として知られ、陸軍内部で高い信頼を集めた。1935年には支那駐屯軍司令官として、中国国民政府の何応欽との間で梅津・何応欽協定を締結。これにより、華北から反日勢力を排除して日本の支配権を拡大させ、のちの日中戦争(支那事変)へとつながる華北分離工作の基礎を築いた。1936年の二・二六事件後は陸軍次官として、反乱の事後処理や軍内の粛軍(統制派主導の組織再編)を強力に推進した。
終戦をめぐる葛藤と本土決戦への執着
太平洋戦争末期の1944年、東条英機内閣の総辞職に伴い、東条の後任として参謀総長に就任。小磯国昭内閣、次いで鈴木貫太郎内閣のもとで終戦期の陸軍指導部を率いた。1945年8月、ポツダム宣言の受諾をめぐる閣議や最高戦争指導会議において、梅津は陸軍大臣の阿南惟幾らとともに、国体護持(天皇制の維持)や自主的な武装解除などを条件に挙げ、安易な降伏に反対して本土決戦の準備継続を主張した。しかし、昭和天皇による「聖断」が下ると、軍の暴発を防ぐためこれに従い、終戦に伴う陸軍全体の秩序維持と武装解除の指揮に努めた。
ミズーリ号での降伏文書調印と東京裁判
1945年9月2日、東京湾上の米戦艦ミズーリ号で行われた降伏文書調印式において、梅津は全権代表(大本営代表)として出席し、日本軍を代表して降伏文書に署名した(政府代表は外相の重光葵)。終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)によって逮捕され、極東国際軍事裁判(東京裁判)において共同謀議の罪などでA級戦犯として起訴された。公判中も沈黙を守り通し、終身禁錮の判決を受けた後、1949年に巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)内において直腸がんのため病没した。