極東委員会
【概説】
第二次世界大戦後の連合国による対日占領政策において、ワシントンに置かれた最高政策決定機関。米・英・ソ・中など11カ国(のちに13カ国)の代表で構成され、連合国軍最高司令官(SCAP)のマッカーサーに対する政策指令の決定権を有した。
モスクワ三国外相会議と委員会の発足
1945年8月の日本降伏後、アメリカは単独での対日占領支配を試みたが、ソ連やイギリスなどの連合国はこれに強く反発し、共同管理の枠組みを求めた。これを受けて、同年12月のモスクワ三国外相会議(米・英・ソ)において、対日占領管理機関の設置が合意された。これにより、それまでの諮問機関であった極東諮問委員会(FEAC)が改組され、1946年2月にワシントンに極東委員会(FEC)が正式に発足した。
極東委員会は、対日政策の最高決定機関として位置づけられ、憲法改正や非軍事化、民主化といった基本方針を決定する権限を持っていた。またこれと同時に、東京にはマッカーサーの諮問機関として、日・米・中・ソの4カ国からなる対日理事会が設置され、極東委員会の決定に基づいて実際の占領政策を監視・指導する体制が整えられた。
アメリカの主導権と「中間指令権」の壁
極東委員会は、当初の11カ国から後にビルマとパキスタンが加わり13カ国で構成された。しかし、その議決には米・英・ソ・中の4大国(のちにフランスを加えた5大国)すべての一致が必要とされる拒否権が認められていた。このため、米ソ対立をはじめとする冷戦の激化に伴い、委員会内での意見調整はしばしば難航した。
実質的な占領統治において主導権を握り続けたいアメリカは、極東委員会の決定を回避するための策を講じていた。それがアメリカ政府に認められていた「中間指令権」である。これは、極東委員会が不合意などで速やかに決定を下せない緊急事態において、アメリカ政府が単独でマッカーサー(連合国軍最高司令官総司令部:GHQ)に対して中間的な指令を直接発することができる権利であった。アメリカはこの特権や、マッカーサーの強力な権限を背景に、極東委員会の意向を事実上棚上げして、自国の望む方向へと対日占領政策を推し進めていった。
日本国憲法制定への関与と終焉
形骸化が指摘されることの多い極東委員会であったが、日本の戦後改革、特に日本国憲法制定のプロセスにおいては極めて重要な足跡を残した。GHQが作成した憲法草案(マッカーサー草案)をもとに日本政府が憲法改正を進める際、極東委員会は「徹底した民主化」を要求し、昭和天皇の戦争責任を追及するソ連やオーストラリアへの配慮もあって、天皇の権限制限や主権在民の明記を強く求めた。
特に、極東委員会が可決した「新憲法制定の原則」に基づき、文民統制の原則を徹底させるための「文民条項」(内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない:憲法第66条第2項)が、急遽憲法草案に挿入されることとなった。これは極東委員会が日本の憲法に直接的な影響を与えた代表的な事例である。
その後、冷戦の本格化とともに極東委員会の存在感はさらに低下し、アメリカによる日本の「東アジアの防波堤」化、すなわち逆コースの動きを止めることはできなかった。そして1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約の発効によって日本が主権を回復したことに伴い、極東委員会はその役割を終えて解散した。