平和に対する罪
【概説】
第二次世界大戦後の国際軍事裁判において、侵略戦争を計画・準備・開始・遂行した国家指導者個人の刑事責任を追及するために初めて適用された罪状。従来の「国家の行為によって個人は処罰されない」という主権免除の原則を覆し、戦争指導者を「人道に対する罪」などとともに裁く根拠となった。極東国際軍事裁判(東京裁判)における、いわゆるA級戦犯の処罰根拠となったことで知られる。
「平和に対する罪」の誕生と背景
近代の国際法において、戦争は主権国家が持つ「国家の権利」の一つとみなされており、敗戦国の指導者であっても個人として戦争そのものの責任を国際法廷で裁かれることはなかった。しかし、第一次世界大戦の惨禍を経て、1928年に締結された不戦条約(パリ不戦条約)により、国家の政策の手段としての戦争(侵略戦争)は国際法上「違法化」される方向へと進んだ。
第二次世界大戦中、連合国は枢軸国の戦争指導者を処罰するための方針を模索し、1945年8月に制定された連合国の「ロンドン国際軍事裁判所憲章(ロンドン憲章)」において、初めて「平和に対する罪」(Crimes against Peace)が成文化された。これにより、侵略戦争の共同謀議や計画、遂行自体が重大な国際犯罪として定義されるに至った。
東京裁判における適用と「A級戦犯」
第二次世界大戦終結後、1946年から開始された極東国際軍事裁判(東京裁判)において、この「平和に対する罪」は極めて重要な役割を果たした。同裁判の条例(極東国際軍事裁判所条例)第5条イ項にこれが規定され、この罪状によって起訴された被告たちが、日本で一般に「A級戦犯」と呼ばれるようになった(なお、B級は通常の戦争犯罪、C級は人道に対する罪を指す)。
東条英機元首相をはじめとする日本の政治・軍事指導者たちは、1928年の張作霖爆殺事件以降、満洲事変、日中戦争、そして太平洋戦争に至るまで、アジア・太平洋地域における侵略戦争を「共同謀議」し、計画・遂行したとしてこの罪で訴追された。判決では被告の多くが共同謀議への関与を認定され、重刑に処されることとなった。
「法の不遡及」をめぐる議論と歴史的意義
「平和に対する罪」の適用に対しては、当時から法的な整合性をめぐる激しい議論が存在した。最大の論点は、行為の時点では国際法上の犯罪と規定されていなかった事柄を、戦後に制定された法律で遡って処罰する「法の不遡及(事後法の禁止)」の原則に反するという点である。裁判中、被告弁護側や、全員無罪を主張したインドのラダ・ビノード・パル判事らは、この点を「勝者による事後法での裁き」として強く批判した。
しかし連合国側は、不戦条約によってすでに侵略戦争は違法化されており、ロンドン憲章はその違法行為に対する個人の刑事責任を具体化したにすぎないとしてこの批判を退けた。「平和に対する罪」の適用は、国家主権の壁を超えて「侵略戦争を企てた個人」の責任を厳しく追及するという新たな先例をつくり、その後の国際刑事法や、現代の国際刑事裁判所(ICC)へとつながる国際秩序の基礎を築くこととなった。