日本共産党
【概説】
戦前の非合法時代を経て、1945年の治安維持法廃止に伴い合法政党として再建された政党。戦後日本の政治史において、労働運動や社会運動に多大な影響を与え、冷戦構造下での弾圧や党内分裂を経験した。その後は武装闘争路線を放棄して自主独立路線を確立し、現在まで議会政治における独自の地位を保ち続けている。
戦前における非合法活動と弾圧
日本共産党は、1922年(大正11年)に国際共産主義運動の指導組織であるコミンテルンの日本支部として極秘裏に結成された。当時の日本社会では私有財産制の否認や天皇制の打倒を掲げる運動は厳しく禁じられており、結党当初から非合法組織としての活動を余儀なくされた。
政府は1925年(大正14年)に治安維持法を制定し、共産主義運動に対する徹底的な弾圧を開始した。1928年の三・一五事件や翌1929年の四・一六事件による全国的な一斉検挙で党組織は壊滅的な打撃を受け、多くの指導者が投獄された。獄中で拷問や懐柔を受けた結果、佐野学や鍋山貞親らのように自らの思想を放棄する「転向」が相次いだが、徳田球一や宮本顕治らは非転向を貫き、日本の敗戦まで長期にわたる獄中闘争を続けた。
戦後の合法化と平和革命路線の台頭
1945年(昭和20年)10月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が発した「自由の指令(人権指令)」によって治安維持法は廃止され、政治犯が釈放された。これにより出獄した徳田球一や志賀義雄らを中心に、同年12月、日本共産党は初の合法政党として再建された。
再建直後の共産党は、日本の軍国主義を打倒した連合国軍を「解放軍」と位置づけ、民主化改革を支持する平和革命路線を採った。深刻な食糧難やインフレーションを背景に労働運動(産別会議など)を強力に牽引し、1949年の第24回衆議院議員総選挙では35議席を獲得するなど、国民的な支持を急速に拡大していった。
冷戦激化に伴うレッドパージと武装闘争
しかし、東西冷戦の激化によってGHQが占領政策を反共路線へと転換(逆コース)すると、党の状況は暗転する。1950年初頭、ソ連が主導するコミンフォルムから日本の平和革命路線が「米帝国主義を美化するもの」として厳しく批判された。この受け止めを巡り、党内は徳田球一らの「所感派」と宮本顕治らの「国際派」に分裂し、激しい内部抗争に陥った。
さらに同年、朝鮮戦争の勃発を機にGHQの指令でレッドパージ(公職追放)が行われ、党の主要幹部は再び非合法状態に置かれた。地下に潜行した所感派は主導権を握り、1951年に「51年綱領」を採択して武装闘争路線に踏み切った。火炎瓶闘争などの過激なゲリラ的活動を展開したが、結果的に国民の強い反発と不信を招き、1952年の総選挙では全議席を失うという壊滅的な敗北を喫した。
自主独立路線の確立と議会主義への回帰
党の存亡の危機に直面した日本共産党は、1955年(昭和30年)の第6回全国協議会(六全協)において極左冒険主義(武装闘争路線)を自己批判し、これを放棄することを決定した。この決定によって党の統一が回復され、再び議会を通じた平和的な民主革命を目指す路線へと回帰した。
その後、宮本顕治の指導体制のもとで、ソ連や中国といった外国の共産党からの干渉を排する自主独立路線を確立した。1961年の第8回党大会で新たな綱領を決定して以降は、議会制民主主義を尊重し、大衆運動と結びついた合法的な政党としての基盤を固めた。1970年代には都市部を中心に革新自治体の誕生に寄与するなど、戦後の日本政治において独自の立ち位置と一定の存在感を示し続け、今日に至っている。