徳田球一 (とくだきゅういち)
【概説】
大正から昭和時代中期にかけて活動した日本の社会主義運動家、政治家。第二次世界大戦後の政治犯釈放によって出獄したのち、日本共産党の再建を主導して初代書記長に就任した人物である。
戦前の非合法闘争と「非転向」の貫徹
徳田球一は沖縄県に生まれ、日本大学法律科を卒業後に弁護士となり、黎明期の社会主義運動や労働運動に深く関わった。1922年の日本共産党(第一次共産党)結党に創立メンバーとして参画し、過酷な情勢下で非合法活動を展開した。しかし、1928年の三・一五事件によって検挙され、治安維持法違反で投獄される。以後、1945年の終戦に至るまで18年もの長きにわたり獄中に身を置くこととなった。多くの運動家が天皇制政府の弾圧に屈して「転向」を表明する中、徳田は一貫して非転向の立場を貫き、不屈の闘士としての圧倒的なカリスマ性を獲得していった。
終戦と日本共産党の再建
1945年8月の敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は民主化政策の一環として政治犯の釈放を指令した。同年10月、府中刑務所から出獄した徳田は、直ちに志賀義雄らとともに日本共産党の再建に乗り出した。同年12月の第4回党大会において、徳田は初代書記長に就任。徳田らはGHQを「解放軍」と定義し、平和的な手段によって革命を目指す「愛される共産党」の路線を打ち出した。敗戦直後の混乱期における民衆の不満を背景に、徳田の卓越した大衆煽動演説は支持を集め、1949年の衆議院議員総選挙では、共産党が35議席を獲得する大躍進を遂げた。
冷戦下での弾圧と党の分裂、中国への亡命
しかし、冷戦の激化にともないGHQの占領政策は「反共の砦」を構築する方向へ急激に右旋回した。1950年、東側陣営の指導機関であるコミンフォルムから、徳田らの平和革命路線を「日和見主義」とする厳しい批判を受ける。この批判への対処をめぐり、徳田や野坂参三らの「所感派」と、宮本顕治らの「国際派」に党は分裂した。さらに、GHQによる公職追放とレッドパージによって合法活動の道を閉ざされた徳田らは地下へ潜行し、中国の北京へ亡命して「北京機関」を組織した。そこで過激な武装闘争方針を指導したものの、国民の支持を失って党勢は急速に衰退した。徳田は帰国の叶わぬまま1953年に北京で病死し、その死は党内外の混乱を避けるため1955年まで公表されなかった。