吉田茂
【概説】
戦後日本の方向性を決定づけた政治家であり、第45・48〜51代内閣総理大臣。自由党などを率いて5次にわたる内閣を組織し、日本国憲法の公布、サンフランシスコ平和条約および日米安全保障条約の締結を行った。
親英米派の外交官から政界へ
吉田茂は、土佐藩出身の自由民権運動家・竹内綱の五男として生まれ、実業家・吉田健三の養子として育った。東京帝国大学を卒業後、外務省に入省し、駐英大使などを歴任する。大久保利通の次男である牧野伸顕の娘婿という閨閥にも連なり、外務省内では一貫して親英米派の立場をとった。そのため、1930年代以降に軍部が台頭し、親独伊路線が強まると不遇をかこち、第一線を退くこととなる。太平洋戦争末期には、近衛文麿らとともに独自の終戦工作を企てたため、憲兵隊に拘束され投獄された。しかし、この「軍部に抵抗した親英米派」という経歴が、皮肉にも敗戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から強い信頼を得る最大の要因となった。
第一次内閣の成立と日本国憲法の公布
戦後、吉田は東久邇宮内閣および幣原内閣で外務大臣を務め、政界の中心へと歩みを進めた。1946年(昭和21年)、戦後初の総選挙で第1党となった日本自由党の総裁・鳩山一郎が、組閣直前にGHQによって公職追放されるという事態が発生する。吉田は鳩山から後継として懇願され、不承不承ながら総裁を引き受け、第1次吉田内閣を組閣した。この内閣において、吉田はGHQの強い指導の下、農地改革の推進や教育基本法の制定など戦後民主化の基盤づくりに尽力し、何よりも同年11月に日本国憲法を公布した歴史的役割は極めて大きい。1947年の総選挙で日本社会党に第1党の座を奪われるとあっさりと下野したが、この時の経験はのちの長期政権に向けた布石となった。
冷戦の激化と「吉田ドクトリン」
片山哲内閣、芦田均内閣が相次いで崩壊した後、1948年に吉田は再び政権の座に返り咲いた(第2次吉田内閣)。翌年の総選挙で民主自由党が単独過半数を獲得すると、以後、第5次内閣に至るまでの長期政権を築き上げる。この時期、国際社会では米ソの冷戦が激化し、1950年には朝鮮戦争が勃発した。これを受けてGHQの占領政策は、日本の非軍事化・民主化から、日本を「反共の防壁」として再建する方向(いわゆる逆コース)へと大きく転換した。
アメリカは日本に強力な再軍備を求めたが、吉田は憲法第9条を盾にこれを頑なに拒否、あるいは最小限の譲歩(警察予備隊の創設など)に留めた。軍事面はアメリカに依存し、自国は軽武装にとどめて経済復興を最優先するこの国家戦略は、のちに「吉田ドクトリン」と呼ばれ、戦後日本の保守本流の基本路線として定着することになる。同時に、ドッジ・ラインによる強権的なインフレ収束策を受け入れ、後の高度経済成長の土台を整えた。
主権回復と日米安全保障条約の締結
吉田内閣の最大の歴史的事業は、敗戦国・日本を国際社会に復帰させる講和の実現であった。国内ではソ連や中国を含む全交戦国との「全面講和」を求める声も強かったが、冷戦下でそれは非現実的であると判断し、自由主義陣営のみとの「多数講和(単独講和)」路線を選択した。1951年(昭和26年)9月、吉田は全権代表としてサンフランシスコ平和条約に署名し、日本の主権回復を達成する。
さらに同日、アメリカ軍の日本駐留の継続を認める日米安全保障条約に単独で署名した。これにより、日本は西側陣営の一員としての立場を明確にし、アメリカの核の傘の下で安全保障を維持する体制が確定した。この選択は、その後の日本の繁栄を約束した一方で、沖縄の長期にわたるアメリカ施政権下への切り離しや、米軍基地問題といった負の遺産も残すこととなった。
「ワンマン宰相」の退陣と吉田学校
強力なリーダーシップと権威主義的な政治手法から、吉田は「ワンマン宰相」と呼ばれた。しかし、主権回復後は公職追放を解除された戦前派の政治家(鳩山一郎や石橋湛山など)が政界に復帰し、吉田との対立が表面化する。1953年の衆議院予算委員会での失言を機に行われた「バカヤロー解散」や、翌年の造船疑獄事件における法務大臣への指揮権発動などは世論の強い反発を招いた。最終的に、鳩山を擁する日本民主党の結成や与党内の離反により、1954年(昭和29年)に内閣総辞職を余儀なくされた。
政権からは退いたものの、吉田の政治的遺産は色濃く残った。吉田は自身の政権下で、旧内務省や大蔵省出身の優秀な官僚を積極的に政界へ登用していた。池田勇人や佐藤栄作らに代表される彼らは「吉田学校」の優等生と呼ばれ、のちに首相として高度経済成長期の日本を牽引した。吉田茂は、敗戦という未曾有の危機において現実主義的な選択を重ね、現代にまで至る日本の国家像の骨格を創り上げた、戦後最も重要な政治家の一人である。