一向一揆 (いっこういっき)
【概説】
室町時代後期から戦国時代にかけて、浄土真宗(一向宗)の門徒たちが中心となり、国人や農民を巻き込んで守護大名などに抵抗した宗教的・政治的な武装蜂起。本願寺第8世蓮如の布教を背景に強固な団結力を持ち、加賀国では守護を倒して約100年にわたる自治を実現した。のちに織田信長などの戦国大名と激しく対立したが、石山合戦での敗北などを経て武装解除へと追い込まれた。
惣村の発展と蓮如の布教
室町時代後期、農業生産力の向上に伴って農民たちは惣村(そうそん)と呼ばれる自治的な村落共同体を形成し、領主による不当な支配に対して団結して抵抗する下地を築いていた。この惣村のネットワークに巧みに入り込み、爆発的な信仰の広がりを生み出したのが、浄土真宗(一向宗)本願寺派の第8世・蓮如である。
蓮如は平易な言葉で書かれた手紙である「御文(おふみ)」を用いて教えを説き、「講」と呼ばれる信者の集まりを各村落に組織した。阿弥陀如来の絶対的な救済(他力本願)と、神仏の前での平等を説く一向宗の教えは、度重なる戦乱や飢饉にあえぐ農民、さらには土着の小領主である国人(地侍)たちに急速に受け入れられた。信仰を軸に結びついた「講」は、やがて領主の支配に対抗する強固な政治的・軍事的な結集力を持つようになっていった。
加賀一向一揆と「百姓の持ちたる国」
一向宗門徒の団結力が大規模な反乱として発現した最も象徴的な出来事が、1488(長享2)年に起きた加賀一向一揆である。加賀国の守護であった富樫政親が門徒への弾圧を強めると、国人や農民を中心とする数十万ともいわれる門徒が蜂起し、政親を高尾城に包囲して自刃に追い込んだ。
以後、加賀国では守護大名が実質的に排除された状態となり、門徒の有力者や国人たちの合議制に基づく自治が約100年間にわたって行われた。この前代未聞の事態を、当時の公家である三条西実隆は日記のなかで「百姓の持ちたる国」と驚きをもって記している。加賀での劇的な勝利は各地の門徒に波及し、一向一揆は北陸から畿内、東海地方にかけて広範な勢力圏を築き上げ、一大惣国を形成した。
戦国大名との激闘と石山合戦
戦国時代に入ると、領国支配の強化(一円知行化)を目指す戦国大名たちにとって、大名権力に服属せず独自の掟と軍事力を持つ一向一揆は、領国経営を脅かす最大の障害となった。三河国の徳川家康は、1563(永禄6)年の三河一向一揆で家臣団が二分されるほどの打撃を受けながらもこれを鎮圧し、その後の大名権力強化の契機とした。
特に一向一揆を恐れ、苛烈な弾圧を加えたのが織田信長である。天下統一を目指す信長は、長島一向一揆や越前一向一揆と激しく衝突し、数万人規模の門徒を虐殺するなどの徹底的な弾圧を行った。そして、一向宗の総本山である大坂の石山本願寺(第11世・顕如)との間では、1570(元亀元)年から11年にも及ぶ石山合戦が繰り広げられた。毛利氏の水軍や雑賀衆などの支援を受けた本願寺は信長を大いに苦しめたが、最終的には正親町天皇の勅命による講和を受け入れ、1580(天正8)年に顕如は石山本願寺を退去した。
一向一揆の歴史的意義と終焉
難攻不落を誇った石山本願寺の開城により、一向宗は軍事的な拠点と武装を失い、戦国大名に匹敵する独立勢力としての一向一揆は事実上終焉を迎えた。その後、豊臣秀吉や徳川家康の政権下で推し進められた太閤検地や刀狩(兵農分離)によって、農民や国人たちの武装蜂起の力は物理的に削がれた。さらに、江戸幕府による本願寺の東西分裂(東本願寺と西本願寺)や寺檀制度の確立により、一向宗は純粋な宗教団体として近世的な国家統制の下に完全に組み込まれていった。
一向一揆は、中世における地域社会の自立志向と、現世の苦難を乗り越えようとする宗教的信仰が結びついた、日本史上最大規模の民衆運動であった。彼らの頑強な抵抗があったからこそ、それを打破しようとする織田信長や豊臣秀吉らは、より強力で徹底した中央集権的支配構造(兵農分離・村切など)を構築する必要に迫られた。その意味で一向一揆は、中世の「自力救済社会」から近世の「幕藩体制」へと日本社会が移行する歴史的転換を、逆説的に早める大きな原動力となったのである。