第一次農地改革
【概説】
太平洋戦争直後の1945年、日本の幣原喜重郎内閣が自作農の創設と農村民主化を目指して着手した最初の農地改革。地主の土地保有上限が高く設定されるなど、地主擁護の色彩が強かったため、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に不徹底とみなされて拒否された。
敗戦直後の社会情勢と日本政府の意図
近代日本の農村を支配していた寄生地主制は、高い小作料とそれによる小作農の貧困をもたらし、戦前の軍国主義台頭や海外進出を裏から支える要因になったと指摘されていた。1945(昭和20)年8月の敗戦直後、日本は極深刻な食糧危機に直面しており、農村の安定と生産力の回復は焦眉の急であった。
同年10月に成立した幣原喜重郎内閣の農林大臣・松村謙三は、連合国軍による強制的な改革が実施される前に、日本政府が主体となって温和な形で農地改革を成し遂げようと試みた。こうして同年11月に、地主・小作関係の調停を目的としていた戦前の法律を修正する農地調整法(第一次改正)の法案が帝国議会に提出された。これが第一次農地改革の始まりである。
改革の骨子とGHQによる拒否
第一次農地改革の主な内容は、不在地主の貸付地をすべて国が買収すること、および在内地主(地元の村に住む地主)の貸付地保有上限を5町歩(北海道は15町歩)に制限し、それを超える土地を国が買い上げて小作農に優先的に売り渡すというものであった。さらに、従来は現物(米)で支払われていた小作料を貨幣で支払う(金納化)ことも定められた。
しかし、この「5町歩」という上限基準は当時の日本の標準的な経営規模からして極めて緩く、多くの地主に土地の保有維持を認める内容であった。また、地主が自己の保有地を守るために小作人から強引に土地を取り上げる「土地引き揚げ」が横行するなどの抜け道も存在した。
地主の既得権益を守ろうとする日本政府の姿勢に対し、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は強い不満を示した。1945年12月9日、最高司令官マッカーサーは日本政府に対し「農地改革に関する覚書」を発令。日本の農民が「数世紀に及ぶ封建的抑圧」下にあると批判し、より徹底した実効性のある農地改革案の作成を命じた。これにより第一次農地改革は実質的に頓挫し、のちに第一次内閣を組織する吉田茂のもとで、限界を1町歩とする圧倒的に厳格な「第二次農地改革」へと移行することとなった。