第二次農地改革
【概説】
第二次世界大戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の強力な主導のもと、第1次吉田茂内閣において断行された農地制度の抜本的改革。不在地主の全小作地や在郷地主の制限超過農地を国が強制買収し、小作農へ安価で売り渡した政策である。これにより、日本の農村を長年支配していた寄生地主制が事実上解体され、膨大な数の自作農が創出された。
第一次農地改革の挫折とGHQの介入
日本の敗戦直後、幣原喜重郎内閣は寄生地主制の矛盾を解消し、農村の安定を図るために自主的な農地改革(第一次農地改革)を試みた。1945年12月に農地調整法を改正し、在郷地主の貸付地保有限度を5町歩(北海道は15町歩)とするなどの改革案を提示した。しかし、この基準は極めて緩く、また地主側の抵抗や巧妙な土地回収運動によって、改革の実効性は極めて乏しいものであった。
これに対し、農村の封建的な地主・小作関係こそが軍国主義の温床であるとみなしていたGHQは、日本政府の生ぬるい対応を批判した。連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーは、1945年12月に発した「農地改革の覚書(農地改革指令)」に基づき、より徹底した改革の実行を日本政府に厳しく迫ることとなった。
自作農創設特別措置法の制定と徹底された買収基準
GHQの強い圧力を受け、1946年10月に第1次吉田茂内閣のもとで自作農創設特別措置法が制定され、同時に農地調整法も再改正された。これが「第二次農地改革」の出発点である。
この第二次改革では、第一次に比べて買収基準が劇的に強化された。第一に、小作地に居住していない「不在地主」の小作地は、面積に関わらず全地強制買収とされた。第二に、地元に居住している「在郷地主」の貸付地(小作地)についても、保有限度を都府県平均で1町歩(北海道で4町歩)にまで厳しく制限し、それを超える分はすべて国が強制的に買い上げた。地主から買い上げた土地は、実際にその土地を耕作していた小作農に対して優先的かつ安価で売り渡された。
ハイパーインフレの恩恵と地主制の完全崩壊
第二次農地改革を実質的に決定づけたのが、戦後の激しいインフレーションの進行である。国が地主から農地を買収する際の価格や、小作農へ売り渡す際の価格は戦前基準の公定価格で固定されていた。そのため、戦後の急速な物価高騰によって、土地の買収・売却価格は実質的にほとんど無価値なものとなった。小作農は、収穫した農産物を闇市場などで売ることで、いとも簡単に土地の購入費用を完済することができた。
この結果、地主は実質的に無償に近い形で土地を取り上げられることになり、大正期から昭和初期にかけて日本の農村に君臨していた寄生地主制は完全に崩壊した。一方で、小作農の多くは自作農へと一挙に脱皮し、戦前の小作地率は約46%から改革後には約10%以下へと激減した。
戦後日本社会と政治体制への巨大な影響
第二次農地改革は、戦後日本の経済と政治のあり方を根本から変貌させた。経済面においては、自らの土地を手に入れた農民の生産意欲が飛躍的に向上し、農業技術の革新と相まって農業生産力の大幅な増大をもたらした。さらに、自作農の誕生は農村の購買力を押し上げ、戦後の高度経済成長期における巨大な国内消費市場を形成する基盤となった。
政治面においては、保守的で土地所有の安定を望む自作農層が、農村における圧倒的な多数派となった。これにより、社会主義運動や共産主義運動が農村へ浸透することが阻止され、戦後の自由民主党をはじめとする保守政権を長期にわたって支える強固な支持基盤(「保守の票田」)が形成されることとなった。