黒塗り教科書
【概説】
終戦直後の日本において、新しい教科書が発行されるまでの間、戦時中の教科書における軍国主義的・国家神道的な記述を児童・生徒自身に墨で塗りつぶさせて使用した暫定的な措置、あるいはその教科書のこと。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令によって実施され、戦後日本の民主化と教育改革の出発点を象徴する事象となった。
敗戦とGHQの教育改革指令
1945年(昭和20年)8月のポツダム宣言受諾による敗戦後、日本を間接統治した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本の非軍事化と民主化を最優先課題とした。その中で、軍国主義や超国家主義の温床とみなされた教育制度の抜本的な改革が急務とされた。同年10月、GHQは「日本教育制度ニ対スル管理政策」という指令(四大教育指令の第一)を発出し、軍国主義的・極右的な教職員の追放とともに、教科書から軍国主義・国家神道・超国家主義的なイデオロギーを払拭することを命じた。しかし、深刻な物資不足にあえぐ戦後の日本において、直ちに民主主義的な新しい教科書を編纂・印刷し、全国の学校に配布することは物理的に不可能であった。
「墨塗り」の実施とその実態
そこで文部省は、新教科書が完成するまでの当面の措置として、戦時中に使用されていた国民学校の国定教科書をそのまま使用しつつ、不適当とされた箇所を削除・隠蔽する方針をとった。同年9月以降、文部省からの通達により、教師の指導のもとで児童・生徒自身が筆と墨を使い、教科書の該当箇所を黒く塗りつぶす作業が行われた。対象となったのは、軍国美談や戦争賛美の詩、国家神道的な神話などの記述であった。墨で塗るだけでなく、該当するページ全体を糊付けしたり、ページごと切り取ったりすることもあった。なお、同年12月にはGHQの指令(修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件)により、修身・日本歴史・地理の3教科は授業自体が停止され、教科書も回収されたため、その後の墨塗りや切り取りの中心は国語などの教科となった。
暫定教科書から新教育への移行
この「墨塗り」の措置はあくまで一時的なものであり、文部省は並行して新しい教科書の編纂を進めていた。1946年(昭和21年)に入ると、従来の国定教科書から軍国主義的な記述をあらかじめ削除し、物資不足のために薄いざら紙(更紙)に印刷された暫定教科書、いわゆる「ペラペラ教科書」が発行・供給されはじめ、次第に黒塗り教科書は姿を消していった。さらに1947年(昭和22年)の教育基本法および学校教育法の制定にともない、六・三・三・四制の単線型教育システムを柱とする新学制が発足すると、文部省著作の新しい歴史教科書『くにのあゆみ』などが導入された。その後、教科書は国定から教科書検定制度による民間発行の検定教科書へと移行していくこととなる。
黒塗り教科書の歴史的意義と児童への影響
黒塗り教科書は、戦後日本の教育史において極めて象徴的な意味を持っている。昨日まで「絶対の真理」として教えられ、声を張り上げて暗唱させられていた神話や軍国美談を、今日には自らの手で否定し塗りつぶさなければならないという経験は、当時の子どもたちに強烈な価値観の転換と戸惑いをもたらした。教師たちもまた、自らがかつて熱心に教えてきた内容を物理的に否定させざるを得ず、深い罪悪感や権威の失墜を味わうこととなった。しかし同時に、この「墨塗り」という身体的行為は、軍国主義からの決別を否応なく自覚させる儀式的な側面を持ち、戦後デモクラシーという新たな価値観を受容していくための、痛みを伴う第一歩でもあったのである。