日本労働組合総評議会(総評) (にほんろうどうくみあいそうひょうぎかい)
【概説】
1950年に結成され、戦後日本の労働運動を長年にわたりリードした巨大なナショナルセンター(労働組合の全国中央組織)。日本共産党の影響力が強かった全日本産業別労働組合会議(産別会議)に対抗し、GHQの意向や民主化同盟(民同)の動きを背景に発足した。当初の親米・反共路線から急速に左傾化し、日本社会党の最大支持基盤として反戦平和運動や春闘を牽引した。
結成の歴史的背景:冷戦の激化と「民同」の台頭
1945年の第二次世界大戦終戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は日本の民主化政策の一環として労働組合の結成を奨励した。しかし、東西冷戦の激化に伴い、GHQの対日政策は日本を東側陣営に対抗する防波堤とする「逆コース」へと転換する。1947年の二・一スト中止命令以降、共産党系の活動家が主導する全日本産業別労働組合会議(産別会議)への抑圧が強まり、労働運動内での赤色追放(レッドパージ)が進められた。
こうした中、産別会議内部から共産党による組合支配に反発する労働組合民主化同盟(民同)の動きが台頭した。GHQは、共産主義の影響を排除した「健全で民主的な労働組合」の育成を意図し、この民同の動きを全面的に支援した。こうして1950年7月、民同系の組合や官公庁の職員組合(官公労)などが大同団結し、日本労働組合総評議会(総評)が結成された。
「鶏からタカへ」:平和運動への傾斜と急進的な左傾化
結成当初、総評はGHQの意図通りに反共・労使協調の路線をとる「温和な鶏」のような存在と期待されていた。しかし、結成直後に勃発した朝鮮戦争を機に、その方針は一変する。総評は戦時体制への協力を拒絶し、労働運動の枠を超えて政治闘争・平和運動へと深く踏み込んでいくこととなった。この劇的な変化は、後に「鶏を飼ったらタカ(闘士)になった」と評された。
1951年の第2回大会では、高野実事務局長のもとで全面講和・中立堅持・軍事基地反対・再軍備反対からなる「平和四原則」を採択。アメリカ主導の単独講和(サンフランシスコ平和条約)に反対し、米軍基地反対闘争(内灘闘争や砂川闘争など)を強力に推し進めた。この急激な反米・反戦路線への転換は、GHQの目論見を大きく裏切る結果となった。
「春闘」の創始と社会党支援から解散へ
1950年代半ば、主導権が高野実から太田薫(合化労連)と岩井章(国労)の「太田・岩井ライン」へと移行すると、運動の方針は生活防衛や賃金引き上げに重点を置く「市場闘争」へとシフトした。総評は1955年、各産業の労働組合が時期を合わせて一斉にストライキを行い、経営側から妥協を引き出す「春闘(春季生活闘争)」を開始した。この戦術は日本の定着した労使交渉プロセスとなり、高度経済成長期における労働者の賃金底上げに大きな役割を果たした。
また、総評は国鉄労働組合(国労)や全日本自治団体労働組合(自治労)などの官公労を中核とし、政治的には日本社会党の最大にして最強の支持基盤であり続けた。社会党への資金や選挙活動における人員提供を通じて、55年体制下の革新勢力を支えた。しかし、高度経済成長による産業構造の変化や、民間大企業における協調的労使関係の進展(全日本労働総同盟=同盟の台頭)により、総評の影響力は次第に低下。1980年代後半の国鉄分割民営化などによる官公労の弱体化を経て、1989年に民間労働組合が中心となった「連合(日本労働組合総連合会)」に合流し、その39年の歴史に幕を閉じた。