国際通貨基金(IMF)
【概説】
為替相場の安定や国際収支が悪化した加盟国への融資を行うため、第二次世界大戦後の1945年に設立された国際金融機関。世界銀行とともに戦後の国際経済秩序の根幹をなすブレトン・ウッズ体制を支えた。日本の戦後経済史においても、国際社会への復帰や開放経済体制への移行過程において極めて重要な役割を果たした。
設立の背景とブレトン・ウッズ体制
第二次世界大戦末期の1944年7月、連合国44カ国の代表がアメリカのニューハンプシャー州ブレトン・ウッズに集まり、戦後の国際経済秩序を構築するための会議が開催された。1930年代の保護主義的なブロック経済が世界恐慌を深刻化させ、ひいては第二次世界大戦の一因となったという深い反省から、戦後は自由貿易の促進と為替相場の安定が不可欠とされたのである。
この会議で調印された協定に基づき、1945年12月に国際通貨基金(IMF)および国際復興開発銀行(IBRD、世界銀行)が設立された。IMFは、金1オンス=35ドルと定め、各国の通貨をドルに固定する固定為替相場制(ブレトン・ウッズ体制)の維持を主目的とした。また、一時的に国際収支が悪化して外貨不足に陥った加盟国に対して短期的な資金援助を行うことで、為替の切り下げ競争を防ぐ役割を担った。
日本のIMF加盟と国際社会への復帰
戦後の日本はGHQの占領下におかれ、1949年のドッジ・ラインによって1ドル=360円の単一為替レートが設定されていた。日本がIMFに正式に加盟したのは、サンフランシスコ平和条約が発効し独立を回復した直後の1952年8月である。
IMFおよび世界銀行への加盟は、日本にとって単なる経済機構への参加にとどまらず、西側陣営の経済システムに組み込まれ、国際社会への本格的な復帰を果たすという重大な歴史的意義を持っていた。これにより、1ドル=360円という為替レートが国際的に公認されることとなった。また、高度経済成長期の初期にかけて、日本は外貨準備高の不足(いわゆる「国際収支の天井」)に度々悩まされたが、その危機を乗り越えるためにIMFから複数回にわたり資金の借り入れを行っている。
IMF8条国への移行と開放経済の実現
IMF協定の第8条は、加盟国に対して「国際収支の悪化を理由とする外国為替の制限を行わないこと」を義務付けていた。しかし、加盟当初の日本は外貨準備に乏しかったため、過渡的な措置として為替制限が認められる「14条国」としての待遇を受けていた。14条国である限り、自国の産業を保護するための輸入制限や為替管理を正当化することができた。
しかし、高度経済成長が進展し、日本の国際競争力が強化されて外貨準備高が増加すると、欧米諸国から市場開放の要求が強まった。これに応える形で、池田勇人内閣のもとで貿易・為替の自由化が推進され、1964年4月に日本は念願のIMF8条国への移行を果たした。同年には「先進国クラブ」と呼ばれるOECD(経済協力開発機構)への加盟も実現しており、1964年は日本が閉鎖的な保護経済から開放経済体制へと大きく転換を遂げ、先進国としての地位を確立した画期的な年となったのである。
ニクソン・ショックとIMF体制の変容
1960年代後半になると、ベトナム戦争の泥沼化などによりアメリカの国際収支が悪化し、大量のドルが海外に流出することで、ドルの金兌換に対する信認が揺らぎ始めた。そして1971年8月、アメリカ大統領ニクソンはドルと金の交換停止を電撃的に発表した(ニクソン・ショック)。
これにより、金とドルを基軸通貨としていたブレトン・ウッズ体制は崩壊の危機に直面した。同年12月のスミソニアン協定によって、日本円は1ドル=308円に切り上げられ固定相場制の維持が図られたものの、国際通貨不安は収まらず、1973年春には日本を含む主要先進国は変動為替相場制へと完全に移行した。
固定為替相場制が崩壊したことで、IMFの当初の最大の目的であった「為替相場の維持」という役割は失われた。しかしその後もIMFは解散することなく、発展途上国への金融支援や、1997年のアジア通貨危機のような経済危機に陥った国への緊急融資と構造改革の要求など、新たな形で世界の金融システムの安定を図る「最後の貸手」としての役割を担い続けている。