封じ込め政策
【概説】
第二次世界大戦後、アメリカ合衆国がソ連を中心とする共産主義陣営の勢力拡大を阻止するために展開した外交・軍事戦略。冷戦期におけるアメリカの対外政策の基調となり、日本の戦後処理や占領政策の転換に決定的な影響を与えた指導理念。
冷戦の勃発と「封じ込め」路線の形成
第二次世界大戦後の1947年、アメリカ大統領トルーマンは、ギリシャやトルコにおける共産勢力の伸張に対抗するため、自由主義諸国への軍事的・経済的支援を打ち出す「トルーマン・ドクトリン」を発表した。これが「封じ込め政策」の事実上の始まりとされる。この政策の理論的支柱となったのが、外交官ジョージ・ケナンが提唱した、ソ連の膨張主義に対して長期かつ忍耐強い「封じ込め」を行うべきとする主張(いわゆる「X論文」)であった。
アメリカはこれに基づき、西ヨーロッパの経済復興を支援する「マーシャル・プラン」を実行し、西側陣営の結束を強化した。この世界規模での冷戦の激化は、アジア、とりわけ敗戦国としてアメリカ(GHQ)の占領下にあった日本への対日政策に決定的な変化をもたらすこととなった。
対日占領政策の「逆コース」と日本の経済自立
封じ込め政策の進展と、1949年の中華人民共和国の成立をはじめとする東アジアの緊迫化は、アメリカの対日占領政策を根本から転換させた。それまでの「非軍事化・民主化」から、日本を東アジアにおける「反共の砦」および「自立した資本主義国家」へと急速に復興させる方針へとシフトしたのである。この歴史的転換は、日本国内において「逆コース」と呼ばれる一連の流れを生み出した。
具体的には、GHQは財閥解体などの民主化改革を緩和・中止し、代わって経済安定九原則やドッジ・ラインを導入して日本経済のインフレ収束と輸出産業の育成を図った。また、国内の共産主義者を公職や職場から追放するレッド・パージが断行され、労働運動への規制も強められた。封じ込め政策の一環として、日本は徹底的に西側陣営の経済・社会システムへと組み込まれていくこととなった。
朝鮮戦争と再軍備への道
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、アジアにおける封じ込め政策は本格的な軍事衝突局面を迎えた。日本に駐留していた米軍が朝鮮半島へ出撃したため、日本国内の治安・防衛の空白を埋める必要が生じ、マッカーサーの指示により警察予備隊(後の自衛隊)が創設された。これは日本の再軍備への第一歩であり、平和憲法第9条との整合性をめぐる戦後日本の政治的対立軸を形成する契機となった。
その後、1951年のサンフランシスコ平和条約および日米安全保障条約の締結によって日本は主権を回復するが、これはソ連などの東側諸国を除外した「単独講和」であった。これにより、日本は実質的にアメリカの極東における封じ込め政策(日米防衛体制)の要として正式に組み込まれることとなり、その政治的・軍事的な枠組みは現代に至るまで維持されている。