中ソ友好同盟相互援助条約
【概説】
1950年に中華人民共和国とソビエト社会主義共和国連邦の間で調印された、軍事および経済の相互協力条約。日本またはその同盟国(アメリカ)による侵略の再発防止を名目に共同防衛体制を規定し、東アジアにおける冷戦の対立構図を決定づけた同盟。
条約締結の背景と仮想敵国としての「日本」
1949年10月、毛沢東率いる中国共産党が第二次国共内戦に勝利して中華人民共和国を建国すると、東アジアの勢力図は激変した。新中国は「西側(資本主義陣営)」に対抗するため、ソ連を首領とする「東側(社会主義陣営)」に完全に合流する方針(「一路倒(いっぺんとう)」)を採った。これを受けて1950年2月、モスクワにおいて毛沢東とスターリンの間で中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれた。
本条約の最大の特徴は、大戦中の軍国主義の復活を警戒し、「日本または日本に同盟するいかなる国(事実上、アメリカ合衆国を指す)」による侵略の再発防止を大義名分として掲げた点にある。もし締結国の一方がこれらから攻撃を受けた場合、他方は直ちに全力を挙げて軍事およびその他の援助を与えるという、極めて緊密な軍事同盟の性格を持っていた。同時に、新疆(しんきょう)や東北地方(旧満州)におけるソ連の権益を一部認めつつ、ソ連から中国への経済援助も取り決められた。
冷戦の激化と対日政策の「逆コース」への影響
この条約の締結は、アメリカを中心とする西側諸国に大きな衝撃を与えた。さらに同年6月に朝鮮戦争が勃発すると、この中ソ同盟を背景に中国は北朝鮮へ義勇軍を派遣し、東アジアにおける冷戦は事実上の熱戦へとエスカレートした。
こうした国際情勢の緊迫化は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による対日占領政策に決定的な影響を与えた。アメリカは日本を「民主化・非軍事化」する方針から、社会主義に対抗するための「アジアの反共の砦」として復興させる方針へと転換(いわゆる逆コース)した。これにより、1950年の警察予備隊(後の自衛隊)の創設やレッドパージが推し進められた。そして1951年、日本は社会主義陣営を除外した「多数講和(単独講和)」の形でサンフランシスコ平和条約に調印し、同時に日米安全保障条約を結ぶことで西側陣営に組み込まれることとなった。すなわち、中ソ友好同盟相互援助条約は、戦後日本が日米同盟を軸とする安全保障体制を選択する最大の契機となった歴史的出来事である。