第1次若槻礼次郎内閣 (だいいちじわかつきれいじろうないかく)
【概説】
大正末期から昭和初期にかけて成立した、若槻礼次郎を首相とする憲政会単独内閣。震災手形関連法案の審議中に起きた片岡直温蔵相の失言から昭和金融恐慌を招き、台湾銀行救済のための緊急勅令案が枢密院で否決されたことで総辞職に追い込まれた。
加藤高明内閣の継承と政局の不安定化
1926年(大正15年)1月、護憲三派内閣から単独内閣へと移行し政権を担っていた加藤高明首相が病死したことを受け、内務大臣であった若槻礼次郎が後継の党総裁となり、第1次若槻内閣を組閣した。政権与党は引き続き憲政会であったが、衆議院では過半数を確保しておらず、野党である立憲政友会(総裁・田中義一)や政友本党(総裁・床次竹二郎)との厳しい政争に直面することとなった。外交面では前内閣から引き続き幣原喜重郎を外務大臣に起用し、中国に対する内政不干渉などを基本方針とする「幣原外交(協調外交)」を展開した。
震災手形問題と片岡蔵相の失言
若槻内閣が直面した最大の経済的課題が、1923年(大正12年)の関東大震災に伴って発生した震災手形の処理問題であった。震災により決済不能となった手形を日本銀行が再割引することで政府は一時的に金融界を救済していたが、その中には震災以前からの慢性的な不良債権が多数紛れ込んでおり、日本経済の大きな重荷となっていた。1927年(昭和2年)初頭、政府はこれらの抜本的解決を目指して震災手形関連二法案(震災手形善後処理法案など)を帝国議会に提出した。
しかし、野党の立憲政友会は、この法案が特定の政商(鈴木商店など)と結びついた銀行を不当に救済するものであるとして激しく追及し、議会は紛糾した。その最中の同年3月14日、片岡直温大蔵大臣が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と事実と異なる失言を行った。これをきっかけに、不安に駆られた預金者が一斉に銀行に殺到する取り付け騒ぎが発生し、昭和金融恐慌が幕を開けた。
昭和金融恐慌の拡大と台湾銀行の危機
片岡蔵相の失言による取り付け騒ぎはまたたく間に全国へと波及し、東京渡辺銀行をはじめとする複数の中小銀行が実際に休業に追い込まれた。さらに、この恐慌の波は、第一次世界大戦期に急成長したのち経営が悪化していた巨大商社・鈴木商店と、同社に巨額の融資を行っていた特殊銀行の台湾銀行を直撃した。鈴木商店は震災手形の仕組みを利用して不良債権の処理を先送りしていたが、ついに資金繰りが行き詰まり事実上の倒産に陥った。これにより最大の債権者であった台湾銀行も、短期金融市場からの資金調達が途絶え、休業の危機に直面することとなった。
枢密院の反発と内閣総辞職
台湾銀行の破綻は国内外における日本経済への信用を決定的に失墜させ、植民地統治の根幹をも揺るがす恐れがあった。事態を重く見た若槻内閣は、日本銀行から台湾銀行へ2億円の特別融資を可能にするための緊急勅令案を立案した。しかし、天皇の最高諮問機関である枢密院は、この勅令案を違憲的措置であるとして否決した。
枢密院が反対した背景には、台湾銀行の放漫経営に対する批判のみならず、若槻内閣が推進する「軟弱」とみなされた幣原外交への不満や、野党・立憲政友会に肩入れして憲政会内閣を倒そうとする保守派の政治的思惑が強く絡んでいた。緊急勅令案の否決により台湾銀行は休業に追い込まれ、恐慌は頂点に達した。事態の打開策を完全に失った若槻内閣は、1927年(昭和2年)4月20日に総辞職した。その後を受け、立憲政友会の田中義一内閣が成立し、モラトリアム(支払猶予令)を発令してようやく金融恐慌の収拾を図ることとなる。