若槻礼次郎 (わかつきれいじろう)
【概説】
大正から昭和初期にかけて活躍した官僚出身の政治家、首相。憲政会・立憲民政党の総裁として「憲政の常道」期に2度にわたり内閣を組織したが、金融恐慌や満州事変などの危局に直面し、いずれも挫折を余意なくされた。
「憲政の常道」を担った実務型官僚政治家
若槻礼次郎は現在の島根県(松江藩)に生まれ、東京帝国大学を卒業後、大蔵省に入省した。主税局長や大蔵次官を歴任した財政の専門家であり、大蔵省の先輩である桂太郎に見出されて政界入りした。加藤高明内閣(護憲三派内閣)では内相として手腕を振るい、加藤首相の急死に伴って1926(大正15)年に第1次内閣を組織、あわせて憲政会総裁となった。この時期は、衆議院の多数派を占める政党が政権を担当する「憲政の常道」が確立された時期であり、若槻はその一翼を担う中心人物であった。
第1次内閣と昭和金融恐慌:枢密院との対立による挫折
1927(昭和2)年、第1次若槻内閣は昭和金融恐慌という未曾有の経済危機に直面した。震災手形の処理をめぐる国会論戦の中で、片岡直温蔵相による「東京渡辺銀行が破綻した」という失言をきっかけに、銀行への取り付け騒ぎが発生した。若槻内閣は、破綻の危機に瀕した鈴木商店と、その資金を融通していた台湾銀行を救済するため、日本銀行から緊急融資を行うための「緊急勅令案」を閣議決定した。しかし、政党内閣を敵視する枢密院によってこの勅令案が否決され、救済策を失った内閣は総辞職に追い込まれた。この挫折は、政党内閣が官僚や枢密院などの特権官僚勢力に対して脆弱であったことを浮き彫りにした。
ロンドン全権から第2次内閣へ:満州事変と「不拡大方針」の破綻
下野した若槻は、立憲民政党の結成に参加。1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮会議では首席全権としてイギリスに派遣され、条約調印を成し遂げる大きな功績を挙げた。この調印は国内の軍部から「統帥権干犯」として激しく非難され、当時の浜口雄幸首相が狙撃される悲劇を招いた。浜口の退陣を受け、1931(昭和6)年に民政党総裁として第2次若槻内閣が発足した。
しかし、発足直後の同年9月に満州事変が勃発する。若槻内閣は直ちに「不拡大方針」を閣議決定したが、現地の関東軍はこれを無視して戦線を拡大した。政府が軍部の暴走をコントロールできない中、閣内では安達謙蔵内相が政友会との「協力内閣(挙国一致内閣)」を画策して独自に動き、閣内不統一を引き起こした。事態を収拾できなくなった若槻は、わずか約8ヶ月で再び総辞職を余儀なくされた。この第2次内閣の崩壊は、政党政治が軍部を抑える力を失ったことを意味し、翌1932年の五・一五事件による「憲政の常道」終焉への道を開くこととなった。