震災手形損失補償法案 (しんさいてがたそんしつほしょうほうあん)
【概説】
1927年(昭和2年)に第1次若槻礼次郎内閣が帝国議会に提出した、関東大震災の被災によって決済不能となった手形(震災手形)を処理するための法案。政府が損失を補償して金融市場の安定を図ろうとしたが、国会審議の過程で政争の具となり、結果として昭和金融恐慌を引き起こす直接の引き金となった。
震災手形の累積と法案提出の背景
1923年(大正12年)の関東大震災の際、政府は決済不能に陥った膨大な手形(震災手形)の決済を円滑にするため、日本銀行にこれらの手形を再割引させ、その損失を政府が補償する特別措置をとった。しかし、この震災手形の中には、震災前から経営破綻しかけていた鈴木商店や、これに多額の融資を行っていた台湾銀行などの不良債権が少なからず含まれていた。
震災から数年が経過してもこれらの不良債権は処理されず、金融界の大きな足かせとなっていた。そこで、1927年に憲政会を興党とする第1次若槻礼次郎内閣は、政府が国債を発行して日銀の損失を補填(補償)し、震災手形を抜本的に整理するための「震災手形損失補償法案」および「震災手形整理公債法案」の2法案を帝国議会に提出した。
議会での政争と金融恐慌への発展
審議の場となった第52帝国議会において、野党の立憲政友会などは、この法案が台湾銀行や鈴木商店といった政権に近い特定の特権資本を救済するためのものであると激しく追及した。この政争によって審議が紛糾する中、1927年3月14日の衆議院予算委員会において、片岡直温大蔵大臣が「今日正午頃に於て東京渡辺銀行がとうとう破綻致しました」と失言(実際にはまだ破綻していなかった)。
この失言をきっかけに市民の不安が一気に高まり、翌日から各銀行の窓口に預金者が殺到する取り付け騒ぎが発生した。これが昭和金融恐慌の始まりである。法案自体はその後可決されたものの、金融界の動揺は収まらず、鈴木商店の倒産と台湾銀行の休業、さらには若槻内閣の総辞職へとつながっていくこととなった。