片岡直温 (かたおかなおはる)
【概説】
明治から昭和初期にかけて活躍した官僚、実業家、政治家。第1次若槻礼次郎内閣の大蔵大蔵在任中、帝国議会における「失言」によって昭和金融恐慌を誘発したことで知られる人物。
実業家から政界の中枢へ
片岡直温は土佐(高知県)出身。滋賀県警部長などの官僚を経て実業家に転身し、日本生命保険の社長を務めるなど関西財界の重鎮として活躍した。その後、政界へ進出して衆議院議員に当選。憲政会(のちの立憲民政党)の幹部として頭角を現し、加藤高明内閣の商工大臣、次いで1926(大正15)年には第1次若槻礼次郎内閣の大蔵大臣に就任した。緊縮財政による緊迫した経済状況の舵取りを任されることとなったが、その在任中に日本経済を揺るがす大事件が発生する。
昭和金融恐慌の引き金となった「失言」
1927(昭和2)年3月14日、衆議院予算総会において、関東大震災以来の不良債権である「震災手形」の処理法案を審議中、片岡は「本日正午頃、東京渡辺銀行がとうとう破綻致しました」と発言した。しかし、実際には同行は資金繰りに奔走中であり、この時点ではまだ破綻していなかった。この大蔵大臣による事実誤認の「失言」が報道されると、翌日から預金者が預金を引き出すために銀行へ殺到する「取り付け騒ぎ」が発生し、東京渡辺銀行は本当に休業へ追い込まれた。この混乱は他行にも波長し、昭和金融恐慌が本格化することとなった。
失言の歴史的背景と若槻内閣の退陣
片岡の失言は、当時の日本経済が抱えていた慢性的な脆弱性を露呈させるきっかけに過ぎなかった。第一次世界大戦後の戦後恐慌に加え、1923年の関東大震災で発生した震災手形の多くが回収不能(不良債権化)のまま放置されており、金融界の実態は極めて不安定であった。そのため、大蔵大臣の一言が預金者の極度の不信感を呼び起こす結果となったのである。この恐慌に対し、政府は台湾銀行救済のための緊急勅令を諮ったが、若槻内閣と対立する枢密院に否決され、第1次若槻内閣は総辞職に追い込まれた。片岡の失言は、一国の経済政策の最高責任者による発言の重さと、当時の日本金融システムの脆さを象徴する出来事として日本史に刻まれている。