自由党解党
【概説】
1884年(明治17年)10月、日本初の本格的政党である自由党が、激化する地方党員の暴動事件や政府の弾圧を背景に自主解散を決定した歴史的事態。板垣退助ら党幹部が急進派を統制できなくなり、組織の破滅を避けるために解党に踏み切った。これにより自由民権運動は一時的に大きな打撃を受けるが、後の政党再編や大同団結運動へとつながる契機となった。
自由民権運動の急進抗争化と松方財政
1881年(明治14年)の「明治十四年の政変」を経て、国会開設の勅諭が下されると、日本初の本格的政党である自由党(板垣退助総理)が結成された。しかし、同年に大蔵卿に就任した松方正義による緊縮財政と増税(松方財政)は、日本経済に深刻なデフレーションを引き起こした。これにより地方農村は急速に窮乏し、没落して土地を失う農民が急増することとなった。
こうした中、自由党の地方組織や急進的な若手党員は、困窮する農民や負債農民の組織(自由民権派の息がかかった困民党など)と結びつき、政府に対する過激な抵抗運動を展開した。1882年の福島事件を皮切りに、1883年の高田事件など、各地で「激化事件」と呼ばれる武装蜂起や陰謀事件が多発し、自由党本部と急進的な地方党員との乖離が進んでいった。
党内統制の喪失と解党の決断
急進化する地方党員に対し、板垣退助ら自由党幹部は効果的な統制力を発揮できなかった。とりわけ、1882年に板垣が政府の陰の資金援助を受けて外遊した「板垣退助洋行問題」は、共同で民権運動を担っていた立憲改進党などから激しい批判を浴び、自由党内の結束と執行部の求心力を大きく揺るがす原因となった。
さらに政府は、集会条例の改正や新聞紙条例の厳格化によって政党活動への弾圧を徹底した。このような状況下、1884年9月に栃木県・茨城県の急進派自由党員らが挙兵して警察官と衝突した加波山事件が発生する。これに衝撃を受けた板垣ら幹部は、これ以上の暴走を放置すれば政党全体が「賊徒」として解散処分を受け、将来の国会開設期に再起できなくなると懸念した。その結果、同年10月29日、大阪で開催された大会において、自ら自由党の解党を決定したのである。
解党直後の暴動と歴史的影響
自由党幹部による解党の決定は、過激化する地方党員の動きを沈静化させるどころか、むしろ彼らを孤立させ、最後の暴発を招く結果となった。解党直後の1884年11月、埼玉県秩父地方で数千人規模の困窮農民や旧自由党員が武装蜂起した秩父事件が発生した。この事件は、解党によって中央の政党的組織という「楯」を失った農民らが起こした、民権運動期最大の激化事件であったが、軍隊や憲兵隊によって壊滅的に鎮圧された。
自由党の解党と一連の激化事件の鎮圧により、1880年代前半の激しい自由民権運動は終息へと向かい、一時的な停滞期を迎えた。しかし、この解党は政党政治の完全な終焉を意味したわけではない。1880年代後半に入ると、条約改正交渉の失敗(外国人法官任用問題)などを契機として、再び民権派が結集する大同団結運動へと受け継がれ、1890年の第1回衆議院議員総選挙における立憲自由党(旧自由党系)の再進出へと歴史のバトンが渡されることとなった。