大阪事件
【概説】
1885年(明治18年)に発生した、旧自由党の左派(急進派)による朝鮮内政改革・政権転覆計画とその未遂事件。大井憲太郎らを中心とする民権派が、朝鮮の独立運動を支援して同国における清の勢力を一掃し、あわせて日本国内の停滞する自由民権運動の再興を図ろうとしたが、渡航直前に大阪などで一斉検挙された。民権運動の過激化と、アジア主義的な対外進出論の結合を示す象徴的な事件である。
民権運動の挫折と「アジア連帯」への転回
1880年代半ば、日本の自由民権運動は大きな転換期を迎えていた。松方デフレによる農村の窮乏と松方財政への反発から、群馬事件や秩父事件などの激化事件が多発し、1884年に自由党は解党へと追い込まれた。国内での武力蜂起による藩閥政府打倒が行き詰まるなか、旧自由党左派の大井憲太郎らは、活動の活路を隣国の朝鮮半島に見出すこととなった。
当時、朝鮮では1884年に親日・近代化派の独立党(開化派)の金玉均らが、清の支援を受ける事大党政権を打倒しようとクーデター(甲申政変)を起こしたものの、清軍の介入により失敗していた。大井らは、朝鮮の近代化と自主独立を支援して清の勢力を排除することが、結果として日本を含む東アジア全体の近代化と安全保障につながり、ひいては日本の藩閥政府を打倒する契機になると考えた。これが大井らの唱えた「東洋同盟論」の萌芽であり、国内の民権闘争が対外的なナショナリズムへと結びつく契機となった。
計画の具体的内容と一斉検挙
大井憲太郎や新井章吾、そして後に「東洋のジャンヌ・ダルク」と称される景山英子(福田英子)らは、朝鮮に渡航してクーデターを起こす計画を密かに進めた。彼らは大阪や長崎を拠点とし、資金集めを行うとともに、武器や爆弾を製造・調達して渡航の準備を整えた。計画では、朝鮮に上陸した後に現政権の閣僚を襲撃し、親日的な政権を樹立したうえで、清国軍と交戦する手はずとなっていた。
しかし、渡航直前の1885年11月、資金調達のために行った強盗事件などをきっかけに計画が漏洩し、大阪の宿などで大井をはじめとする主要メンバー約140名が警察に一斉検挙された。この検挙劇により、計画は実行に移されることなく未遂に終わった。
大阪事件の歴史的意義と「国権論」への変質
1887年の判決において、大井や新井らは重禁錮刑などの実刑判決を受けたが、1889年の大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって全員が釈放された。この事件は、単なる国内の過激派によるテロ未遂にとどまらず、日本の自由民権運動が抱えていた内なる矛盾と変質を浮き彫りにした。
自由民権運動は、本来は国内の民主化(民権)を求める運動であったが、大阪事件においては「隣国を改革して自国の安全を図る」という対外進出・介入論(国権)へと傾斜していった。この「民権」と「国権」の妥協的な結合は、その後の日本の対外強硬世論の形成や、1894年の日清戦争における民権派の政府支持へとつながる地ならしとなり、日本の近代ナショナリズム(アジア主義)の先駆的な事例として歴史的にきわめて重要な意味を持っている。