中国共産党 (ちゅうごくきょうさんとう)
【概説】
1921年にコミンテルンの指導のもと、陳独秀らによって結成されたマルクス・レーニン主義を掲げる政党。当初は知識人中心の弱小組織であったが、日中戦争期に抗日運動を牽引して大衆的支持を拡大した。第二次世界大戦後の国共内戦に勝利して1949年に中華人民共和国を建国し、現代に至るまで同国の一党支配を続けている。
創設と初期の国共合作
1920年代初頭の中国は、辛亥革命後も軍閥が割拠し、帝国主義列強による半植民地化が進む混迷期にあった。こうした中、ロシア革命の成功に刺激を受け、1921年にコミンテルン(国際共産主義運動の指導組織)の指導のもとで陳独秀や毛沢東らが参加して中国共産党が結成された。
結成当初の共産党は極めて小規模な組織であったが、1924年には孫文率いる中国国民党との間で「第一次国共合作」を結成。打倒帝国主義・打倒軍閥を掲げる国民革命を推進した。しかし、孫文の死後に国民党の実権を握った蔣介石は共産党の台頭を警戒し、1927年に上海クーデターを断行して共産党を徹底的に弾圧した。これにより合作は崩壊し、両者は激しい内戦状態へと突入した。
日本の侵略と「抗日民族統一戦線」の結成
1931年の満州事変に始まる日本の軍事的侵略は、中国国内の対立構図を大きく塗り替えた。国民党の蔣介石が「先安内後攘外(国内の共産党制圧を優先し、その後に外敵を防ぐ)」方針をとり、共産党への包囲攻撃を優先したのに対し、毛沢東率いる共産党は「長征」と呼ばれる大移動を経て陝西省の延安へと拠点を移しつつ、抗日を最優先すべきだと世論に訴えて支持を集めた。
1936年、共産党討伐の最前線にいた張学良が蔣介石を拘束した西安事件を契機に、国民党は方針転換を余儀なくされた。翌1937年の盧溝橋事件により日中戦争が全面化すると、両者は妥協して「第二次国共合作」を結成。これにより抗日民族統一戦線が組織された。共産党の軍隊は八路軍や新四軍へと改編され、華北などの日本軍占領地域の背後に展開してゲリラ戦(遊撃戦)を組織した。この粘り強い抗日戦は日本軍の戦力を著しく消耗させ、日本の敗戦を決定づける要因の一つとなった。
国共内戦の勝利と日本への歴史的影響
日中戦争を通じて、共産党は徹底した農地改革などを行い、農民を中心とする大衆の強固な支持基盤(解放区)を築き上げた。1945年8月の日本の敗戦により日本軍が撤退すると、戦後中国の主導権をめぐって国民党との間で再び国共内戦が勃発した。アメリカの莫大な支援を受ける国民党に対し、民衆の支持を背景とした共産党は各地で圧倒し、1949年10月1日、毛沢東は北京において中華人民共和国の成立を宣言した。敗れた蔣介石は台湾へと逃れた。
この中国共産党による政権樹立は、戦後日本の東アジア外交・安全保障政策に決定的な影響を与えた。冷戦体制下、日本はアメリカの意向を受けて台湾の「中華民国」を正統な政府として承認し、大陸の共産党政権とは長く国交を持たない状態(日中非友好関係)が続いた。しかし、1972年の日中共同声明によって国交を正常化して以降、両国は緊密かつ複雑な経済・政治的関係を築いていくこととなる。